【第390回】 やりたいことはやる

最近、65歳以上が高齢者というのは現実に合わないので、80歳、85歳以上を高齢者とよぶべきである、などと言われるようになった。まさしくそうだと思う。私自身も70歳以上にはなったが、肉体的、精神的にも高齢者であるとは感じない。ただ社会のシステム上、高齢者の分類に入れられるので、仕方ないだけである。

いづれにしても、年を取ってくれば誰でも若い時とは違ってくるし、生き方も変わるだろう。年を取ってきて共通するのは、死を意識すること、先が少ないことを意識すること、体の機能が減退していくこと、物忘れが多くなること、等などである。だが、よいこともあって、例えば余分なこと、どうでもよい事は、忘れるし、興味を持たなくなること、等があるだろう。

どんどんお迎えが近づいているわけだが、その最後の時、自分はどこで、どんな状態でいるのか、想像はできない。だが、その時ひとつだけ避けたいと思うことがある。それは、あの時あれをやっておけばよかったとか、もっとやりたいことをやっておけばよかった、等と後悔したり悔いを残すことである。他にも、あそこに行けばよかったとか、あれを食べたかったとか、あの時あれをやっておけばよかった、等々とあるだろう。

若い時には、体力や気力があり、無茶だと思ってもやればなんとかなるだろうと思ったし、やって失敗しても挽回できるだろうと、なんでも積極的に挑戦したものだ。しかし、年を取ってくると、横着になったり、面倒になったりで、いろいろ理屈をつけて後回しにし、結局はやらず仕舞になったりするようになる。

やりたいことをやるのもやらないのも、本人の自由である。だが、やりたいと思ったことをやらないのも、他や自分が決めたやるべきことをやらないのも、本人の損になるだろう。損というのは、生きる楽しみを削ってしまうことになりかねないし、お迎えの最後の意識でそれを後悔するかもしれないからである。

やりたいことをやっていると、更にやりたいことが出てくるようだ。やりたいというのは自分から出てくる願いであるわけだから、その願いは叶えてやらなければいけないだろう。そうでないと、自分の中の何者かが不満を持ち、反抗することになるだろう。逆にその願いを叶えれば、その何者かが感謝し、お礼をしてくれるはずである。

やりたいことをやっていけば、どんどんやりたいことが増えてくる。すると、自分が変わっていき、創造的に、そして前向きに生きることになるだろう。

若い時に、やりたいと思って合気道を始めたが、本当によかった。合気道というものを知った偶然性と、それをやりたいと思った心に、感謝である。

もっと年を取っても、やりたいことはいくらでもあるだろう。大中小と、たくさんあるはずだと思う。

合気道の上達は、やるべきことをやり、そして、やりたいことをやっていくこと、とも言えるだろう。人によって違うだろうが、例えば、形稽古の他に剣や杖の稽古、他武道の研究、柔術の技の研究、体の研究、武道演武の見学、『武産合気』や『合気真髄』研究、等などがある。

合気道の稽古も、いずれは終焉を迎えることになる。だが、やりたかったあのことをやっておけばよかった、と思いながら、終わりたくはないものである。