【第39回】 科学する

入門した頃に度々、稽古時間や自主稽古などに開祖が道場に現われていろいろ説明されるのをお聞きしたものだが、明治生まれの開祖が幾度となく「科学する」という言葉を使われたが、合気道の道場で聞くとなにか違和感があるような印象を受けたものだ。最近どうも、開祖が言われていたこの「科学」という言葉が気になってきたので、少々考えてみた。

開祖が「科学」という言葉を使われた例を、文献から幾つか挙げてみると、
〇「合気は人の本能たる引力によって人を通じて宇宙の妙精と一つになって科学しながら業が生まれてくる。」
〇「技はその造化機関を通して科学化されて湧出してくるものである。」
〇「武産合気とは、自己の魂が、身心によって科学されて出てくるものである。」
などがある。

「科学」を辞書で調べてみると、広義では、「再現性」や「客観性」、「論理」的な推論の過程を重視する学問的態度を科学とし、またそれらにより得られる知そのものを指す、ということである。しかし、これは開祖が言われている「科学」が意味するものとは若干違うように感ずる。

明治までは「科学」という語はなかったが、「科学」という言葉の由来は「分」ないしは「百術」からの造語であるということである。さらに、福沢諭吉が、百術について、「百術のかたちは様々であって、その遠近軽重は同じでない中にも、人として自分でおのれの身がどのようなものであるかを知り、その物質を知り、その構造組織を知り、その運動や作用を知るのはたいへん大切なことであって、たとえ専門の学者でなくても、めいめいの身を守るためには、おおよその心得がなくてはならない。」(福翁百話)と述べていることが引用されていた。どうやら、これが開祖が言われている意味に近いのではないかと思われる。現代の「科学」は自分とは距離を置いた客観的な学問的態度を指して使用されるのに対し、福翁百話では、自分との係わり合いを重視しているのが特徴である。

「科学」という言葉の意味を考えた結果は以上のようであるが、合気道の稽古は「科学」しなければ上達がないことは確かである。ただ、がむしゃらに稽古をしても進歩することはない。合気道の稽古を「科学」するということは、宇宙、自然を観察し、自分を知り、自分と宇宙や自然の関係を感じ、それらの進歩発展の造化機関から湧出してくる技を確認し、再現することではないだろうか。