【第387回】 常に出し切る

合気道の稽古には、完成という終わりはない。完成というゴールにたどり着くことができないことを分っていながら、そのゴールに向かっていくのである。これは、ロマンというしかないだろう。ロマンティスト万歳である。合気道家万歳、である。

合気道は、それほど多くない技(の形)を繰り返し稽古しながら、宇宙の法則に則った技を練磨し、上達していくものである。数を数えたことはないが、この50年間で、片手取り四方投げなどは何万回、何10万回やったことだろう。

稽古を始めたころなら、やること、教えてもらうことが、知らない事ばかりであり、少しでも身につけようと一所懸命だろう。だが、技の形をひと通り覚えると、相対の稽古相手が自分より後の入門者だったり、婦女子だったりしたら、気を抜いたり、力を抜いたり、気力も抜けてしまったりして、力を出し切れないことになりがちである。

力を出し切るというのは、どういうことかというと、学生など若い場合には、先輩に対して遠慮なく体と気力をぶつける稽古をすることであろう。だが、長年稽古を続けている高段者の場合には、自分の体力、気力を充実させて、相手と一体化するようにやることとなる。それは、息と呼吸力によって宇宙の法則に則った技を見つけて、それを身につけていくよう、全身心を集中することではないかと考える。

かつて開祖が道場に立たれた時には、開祖はわれわれに常に最高のものを示そうとして下さっていた。開祖は自らそういわれていたし、開祖の技やご説明が毎回いろいろと異なっているのは、われわれにその時その時の最高のものを伝えようとされていたのである、とわれわれは理解していた。

昔なら秘伝とか奥伝といわれていたであろう門外不出のような技や思想を、開祖は惜しげもなく、我々稽古人だけでなく、世間、世界中に披露しておられた。

しかし、考えるに、常に惜しげもなく出し切られていたからこそ、新しい技、新しい思想が、どんどん湧出されたのではないかと思う。

これが開祖のお教えでもあったのであろうと考える。出し切るから、新しいものが出てくるのである。新しいものが出てこないのは、詰まっているから出てこないのであるから、常に出し切らなければならないのである。

技の形稽古でも、自分が身につけているもの全てを出して、全身、全霊でやらなければならない。出し切らなければ、新しいものは入ってこないから、進歩がないことになる。

自分の考えも同じである。出し惜しみなどしていると、新しいものは出てこない。新しい考えが欲しいなら、常に、全てを出し切らなければならない。