【第385回】 素直になる

人は年を取ってくると、一般的に頑固になってくるようだ。親や親戚、まわりの人をみても、そのような傾向があるし、自分自身を考えても、どうもその方向に行っているように思える。

自分が子供の頃は、町内に頑固爺さんがいて、子供が悪さをすると、禿げた頭に湯気を立てどなっていたものである。子供心に、自分はあんなお爺さんにはなるまいと思っていたが、今になるとその頑固爺さんの気持ちが分るようになり、それも悪くないと思うようになった。

長年生きてきた人は、多くの経験をし、たくさんの試練に耐えてきたことであろう。若い者たちがやっていたり、やるべきことは、すでに経験したし、試練も受けてきたわけである。若者などにはまだまだわかっていない、という自負もあるだろう。

それに、長年生きてくると、死ということを意識するようになる。死を意識しながら生きたり、ものを考えたり、また稽古するようになる。若者には、まだそれがない。

そんなことから、年を取ってくると、自分の生き方に自信と不安の双方をもつようになる。それにしがみついたり、とりつかれて意固地になったりすると、頑固にもなるだろう。

意固地や頑固は一般的にネガティブな言葉であるが、半分はポジティブであると思う。つまり、自分のやってきたこと、そこからの考えなどに、誇りをもち、そして、正しいと思っているからである。だから、思い切り怒ったりどなったりできるのである。

年を取ると、意固地で頑固になる傾向があるわけだが、半分のポジティブは残して、半分のネガティブをおさえ、ポジティブに変えていけば、すてきな頑固爺になれるのではないかと考える。

そのキーワードは、“素直になる“である。素直とは、生まれた自分に戻ってみる、ということだろう。それまで積み重ねてきた自分を忘れて、人間本来としての自分として、自分を見直してみるのである。すべてを否定するのではなく、若者の考えに耳を傾け、赤子の気持ちで、先入観をなくして見たり、聞いたりするのである。だが、容易なことではない。

素直になると、まず自分が見えてくる。すなわち、自分の愚かさと同時に、すばらしさ、生まれてきたことへの感謝と不思議、など等である。

自分が見えてくると、他人も見えるようになる。他人も一生懸命生きていることが見えてくる。みんな共に宇宙生成化育の使命をもって生きているわけだから、みんな家族であると思うようになるはずである。開祖がいわれるように、人類みな家族である、ということがわかる。それは、人だけではない。動物も植物も、万有万物が宇宙家族なのである。

自分が見え、他人、万有万物が見えてくると、そこに愛が生まれてくる。宇宙楽園建設のために生成化育をしている家族のために、お手伝いするのである。

つまり、相手の立場で見たり、考えたりするようになるのである。これが、合気道で云うところの愛である、と考える。開祖が烈火のごとく我々門人をしかられたことがあるが、我々のことを思い、我々門人たちのためにしかられたのであろう。

年を取って、頑固爺になるのは仕方ないだろうが、相手の立場で見、考える「愛」で生き、合気道の稽古を続けていけばよいのではないだろうか。そうすれば、よい頑固爺になれるのではないかと思う。そのためには、まず素直になることが大事なようだ。