【第384回】 用の合気道と道の合気道

合気道を稽古しても、けんかには強くなれないだろう。合気道はけんかに強くなるために教えてはいないからだ。けんかに強くなりたいなら、他のものを習った方がよい。

開祖は強かったとか、お弟子さん達も強かったし、けんかや争いに引けを取ったことがない、などといわれているが、それは時代や社会状況が今とは違っていたからだと考える。

当時の武道は、負ければ消えていくという厳しいものであった。だから、たとえけんかや争いがあったとしても、絶対に勝たなければならなかったのである。そのため、いかなる攻撃にも対処できるよう、考え得るすべての攻撃を想定して、稽古していたであろう。

従って、当時の稽古は勝つために、相手を投げたり抑えたりすることを目的にしていたのであった。

開祖が若い時に学ばれた大東流柔術は、まさにどんな得物で、いかなる攻撃を受けようとも対処できるものであり、開祖もそのように稽古され、天下無敵になられた。

しかし、開祖のすばらしいのは、この勝つための柔術を経て、合気道をけんかや争いのためのものではなく、宇宙との一体化への道、と昇華させたことである。

今でも時々、合気道の相対稽古で、相手をやっつければよいとばかり、合気道と術の稽古を混同している者もいるようである。つまり、相手をやっつけることを目的に、倒そう、抑えようとばかり稽古しているのである。

これを、「用の稽古」と呼ぶことにする。「用」とは、何かのために利用すること、役に立つことである。相手を倒そう、抑えようとすれば、「用の合気道」ということになってしまうだろう。

もちろん、合気道は武道であるから、相対稽古の相手を倒し、抑えることができなければならない。しかし、これは結果であって、目的ではない。つまり、正しい動き、体つかい、息つかいの結果として、相手は倒れるわけであり、形稽古における自分のプロセスが重要となる。

合気道は、宇宙との一体化への道、合気の道、である。用ではなく、道であり、たどり着けるかどうかわからないが、ゴールを目指すものである。用とは、道にくらべて、目先の事、日常的なこと、一時的・相対的目的である、ということができるだろう。

さらに、もう少し合気道の場合の「用」と「道」を対比してみると、次のようになるのではないだろうか。

対他人 対自分
相手に勝つため、負けないため 自分に勝つ
目先の事 自分の目標に向かい、近づく
駆け引き、欲望、邪心が出てくる 理合、宇宙の条理・法則を求める
間違った方向へ行きやすい いつも同じ目標に向かっていく

用の合気道をすれば、壁にぶち当たること必須であるし、体を壊すことにもなりかねない。

日本の代表的な武道である柔道や剣道などにいろいろな問題が噴出しているようであるが、その原因の一つとして、用の武道になってしまったことが考えられる。合気道もその轍を踏まないよう、用の合気道にならないように、注意して稽古しなければならないだろう。