【第382回】 年を取っても稽古が続くために

合気道は宇宙との一体化が目標であり、宇宙の生成化育を禊と使命によってお手伝いする武道、と教わっている。従って、合気道の修行は一朝一夕で済むものではなく、ずっと続けなければならないし、また、生涯かけたとしても、その目標にたどり着けるという保証はない。

合気道家はその目標に近づくべく、技を練磨している。若くて元気があり、体力や腕力がある内は、その元気と力をフルに使って、相手を投げたり、受けを取ったりする。50,60歳頃までは、開祖が言われるところの魄の稽古ということになるだろう。

魄の稽古は、長年培ってきた人間の本能のようで、自然に出てくるもののようだ。そして、人は無意識の内に、いつまでもその魄の稽古を続けたいと思うようである。

しかしながら、70歳ごろを過ぎてくると、体力や腕力が衰えてくるので、それまでのような力に頼った魄の稽古はできなくなる。
合気道修行の目標に近づくためには、まだまだ稽古を続けなければならないわけだが、段々とそれまでの魄の稽古ができなくなってくるので、はたと困ってしまうことになる。

ここから道は二つに分れるはずである。一つは、これまでの魄の道を行く。もう一つは、年を取ってもできる稽古に変える道である。

多くの稽古人は、最初の魄の道を行くようであるが、若いころと同じ稽古のやり方で、稽古を続けていくと、何年かたつと壁にぶち当たって、稽古の限界を感じ、先への希望がなくなったり、体を痛めてしまったりするものである。そして、合気道修行の終了、ということになる。誰もがいつまでもできそうな合気道であっても、高齢者が少ないのは、このためであると思う。

年を取っても稽古を続けるためには、それまでの魄の稽古を変えなければならない。魄の稽古を変えるためには、魄の限界を知ること、魄にかわるものを見つけることである。そして、そのための体をつくり、その体を理に合ったつかい方をする、等が必要となろう。

年を取ってくれば、自分の魄の限界を知るのは難しくないはずだ。年を取れば誰でも必ず体験するはずだからである。

次に、魄にかわるものをみつけなければならないわけであるが、稽古していれば、誰でも学んでいるものであるから、そう難しいことではないだろう。例えば、諸手取り呼吸法では、一本の腕を二本の腕で掴んでくるのを制するわけだから、これができれば相当な力がある、ということになる。しかし、腕の力という意味で同質、同次元の力であるから、これはまだ魄の力ということになる。

この腕の力にかわる力は腰、体幹の力である。諸手取り呼吸法は、若いときは魄力をつけるために、腕の力をつかってやるのもよい。だが、年を取ってきたら、腕にかわる腰、体幹の力をつかわなければならないことになる。

もちろん、魄に代わるものは、技である。技には術(テクニック)という面と、宇宙の法則に則った技がある、と考える。術(テクニック)としての技は、大ざっぱにいわせてもらうと、いつも形稽古をしている二教とか四方投げなど等である。柔術などの術と同じように、術を知らない人には、有効に使えるテクニックである。

しかし、合気道は術を覚えるだけではなく、この術でもある形稽古を通して、宇宙の法則に則った技を身につけていくのである。この技が身につけば、100歳になっても、若者を指一本で制することができるのではないだろうか。

魄に頼らないようにするためには、まず体をつくらなければならない。年を取るに従い、人の体は少しづつではあるが、固まってくる。しかし、筋肉や関節を柔軟にしようと鍛錬すれば、それなりに柔軟になるようである。

筋肉は、若いときには表層筋を鍛えているわけだが、深層筋をつかい、そして鍛えていくようにすべきである。深層筋は表層筋の下、骨の近くにあるわけだから、手などの体の末端を動かす際は、体の中心から動かせばよいことになる。講談などで、老人が若い怪力の持ち主を制したりするのは、この深層筋ではないかと考える。

さらに、理に合った体のつかい方をしていくことである。それには、まず息に合わせて動くことである。息で、動きの調子や拍子をとるのである。こうすれば、息が上がらないし、疲れないので、年を取っても動けるはずである。

次に、これまで何度も書いたことだが、法則に則った体のつかい方をすることである。例えば、手も足も、右・左・右・左と、陰陽に規則的につかう、相手との接点で相手と結び一体化する、相手との接点を支点として支点を動かさないようにする、身体の末端からではなく中心から動かす、自分の円の中に相手を入れる、など等である。

若い頃は、どうしても自分の力に頼って稽古をするものだ。だが、年を取ってきたなら、自分の力だけではなく、開祖のように、天の気、地の力、宇宙の力が応援してくれるようになるのが理想的だろう。これは、年寄りの特権ともいえるのではないだろうか。

それまでの魄の稽古から、稽古法を変えるのは、容易なことではない。全く新しいことに挑戦しなければならないので、先が見えないし、不安である。それに、一時は弱くならなければならない。今まで対等に稽古をしていた相手に、痛めつけられることがあるかも知れない。

しかし、魄の稽古を続けば、いずれ近いうちに壁にぶち当たることは確実である。修行を続けたいと思うなら、勇気をもって、そして夢をもって、挑戦しなければならないだろう。