【第382回】 合気道の技と技の形

合気道はよほど注意しないと、道を外してしまうことがある。初心者もそうであるが、長年稽古をしている稽古人でも、誤解していることがある。そのひとつは、合気道の「技」と、合気道の「技の形」の違いである。

合気道は正面打ち入身投げや四方投げなどを、相対で技をかけ合い、受けを取り合って稽古をしている。だが、この正面打ち入身投げや四方投げは、正確にいえば「技の形」であり、「技」ではない。

この「技の形」を稽古する形稽古の目的は、ひとつには、体の節々をときほぐすための準備であり、六根の罪けがれをみそぎ淨めることである。開祖は、体のカスを取るといわれていた。もうひとつは、この「技の形」を通して、「技」の練磨をすることである。

開祖は「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである」といわれている。だから、正面打ち入身投げというような形を覚えることが、稽古の目的ではないはずである。

「形」とは、あらかじめ順序と方法を決めて練習することである。基本の技の「形」の順序と方法を知らなければ、次の技の練磨ができないから、「技の形」もしっかり身につけなければならない。つまり、「技の形」も大事である。

「技の形」は、誰でも問題なく身につけることができるだろう。だが、問題は、この「技の形」を「技」だと思い、相手を倒したり、抑えることができれば、技が効いたとか、技がうまくなったなどと、勘違いしてしまうことである。だから、「技の形」を長年繰り返して稽古をすれば、技が上達すると思ってしまうのである。

「技の形」に頼って相手を倒そうと思うと、力(魄)に頼らざるえなくなり、体力や腕力の強いもの勝ちとなる。魄が表に出てく世界になり、開祖がお嘆きになることになる。

合気道の「技」とは、宇宙の法則に則った宇宙の営みを形にしたものである、といわれる。だから、形はないのである。その「技」を、「技の形」を繰り返し稽古することによって、見つけ、身につけていくのである。それを、技の練磨というと考える。

「技の形」は開祖が先人の知恵の上、神の導きの基につくられたものであり、この「技の形」には、当然、宇宙の法則に則った「技」がぎっしりつまっていることになる。それ故、「技の形」から、「技」を身につけていくことができるのである。

形がない「技」を見つけ、身につけ、練磨していくのは容易ではないが、開祖は、どうすれば「技」が生まれるかを、教えて下さっている。

例えば、「円の動きのめぐり合わせが、合気の技であります」ということである。円とは十字である。手や足や体を十字につかい、手(手首、肘、肩、胸鎖関節を中心にした円)、足(足首、膝、腰を中心にした円)、体(首、胸、腰を中心にした円)の円の動きと、十字の呼吸のめぐり合わせで、出てくるものであろう。

また、天の浮橋に立たなければならない、ともいわれている。聖典を熟読し、それを自分の身を通して、試していくべきだろう。

開祖は、技の生み出しは「技はその造化機関(タカアマハラ、人)を通して科学化されて湧出してくるものである。これを誤ることなく霊と体と調和のとれた、フトマニ(気体と気体と正しく打ち揃った美しい様)の神意を体得して技を生み出していくことである」といわれている。

技が生み出されるようになるには、己の造化機関を鍛え、神意を体得するように、修行に励まなければならない、ということである。