【第38回】 極限の稽古

合気道を稽古している高齢者といっても、長年稽古を続けている人もいれば、高齢になってから始めた人もいる。高齢者で始めた人はそれなりにしっかりした考えがあってのことだろうが、長年稽古を続けてきた人は、これまでの延長上で自分はまだまだ若いと思い、若者には負けまいとして力んでしまうことが多いようだ。しかし、ある時ふと、まだまだ稽古を続けたいが、いつまで稽古が続けられるか、考えるようになるものである。

人は誰でもいつかは死ななければならない。合気道の稽古もいつか出来なくなる。どの時点で稽古ができなくなるのかは、その人その人で違うものだ。それは、その人の合気道観による。人を投げることを目的とすれば、その力が尽きたときがその人の合気道寿命であるし、身体を鍛えるためにやっていれば、受け身も出来ず、正座ができなくなれば止めるだろう。しかし、もし合気道が自分の人生の一部であり、生きること即合気道であれば、自分の生が終わるまでできるはずである。つまり、合気道を止めたときが死ぬときなのである。

もし合気道を死ぬまでやろうと思えば、受け身や正座ができなくなり、足腰が思うように動かなくなっても修行は続けられるのではないだろうか。ということは、合気道の稽古、修行は道場でバタバタ動き回ることだけではないことになる。今から身体の自由が効かなくなってからの稽古方法も考えておかなければならないだろう。また、そこまでいく過程での稽古法も考える必要があるだろう。武田葱角が最晩年、脳卒中で倒れて寝ているところに見舞いに来た弟子に、手を取れと言って持たせたという。たぶん究極の呼吸法を試そうとしたのだろう。死ぬまで技の練磨を怠らなかった武田葱角も立派である。人間は死ぬまで精進し、変ることができるのだと思う。