【第379回】 相対的な生き方から絶対的な生き方へ

古希を過ぎると、今まで見えなかったことが見えるようになり、これから先のことも見えてくるようだ。

若いころは、他人に負けないようにがんばってきた。学校も仕事も、学校のクラブ活動での運動も、また、合気道の稽古も、他人に負けないようにとやっていたものである。

その結果だが、東大に入れたわけでもなく、一流会社の社長になったわけでもなく、オリンピック選手に選ばれたわけでもなく、合気道でも達人になったわけでもなく、ただの人として、平凡な人生を送っている。

しかしながら、年のせいと合気道のお陰で、他人であれ、なんであれ、争うこと、他人との勝負には、興味がなくなってきた。勝負するということは、何かを得るためにするわけだが、その何かに興味もなくなってきているのだ。もういつお迎えがくるかわからないのだから、大それたものなど要らないし、逆に邪魔になると思うようになってきた。

これまでは、他人に負けまいなど、他人を意識した生き方をしてきたが、これは相対的な生き方である。この相対的な生き方に、興味がなくなってきたわけである。

自分だけでなく、周りの高齢者がこのような相対的な生き方をしているのにも、違和感を覚えるようになってきた。あと数年しか持ちそうもない後期高齢者が、株や債券でもっと金を儲けたいとか、宝くじで当てたいとか話しているのを聞くと、滑稽であると同時に哀れに思える。

また、親しい友達同士で集まって話している内に、そこにいない友人をこきおろしたり、笑い物にしているのを聞くのも、哀れである。人をこきおろすことによって、自分は違うぞ、偉いんだぞといいたがってようだが、他人をおとしめることで自分を上にしたいという、相対的な生き方を引きずっているのである。

では、相対的な生き方がいけないのなら、どういう生き方をすればよいか。それは、絶対的な生き方である。他人と比較しながら生きる相対的な生き方に対して、自分を見つめ、自分に負けないよう、自分が今より少しでも成長するよう、自分と戦っていく、という生き方である。

合気道の稽古ならば、稽古で何を得たか、とかいうことであり、できなかったことができたとか、分らなかったことが分った、とかいうことが大事なのである。それが、絶対的な稽古ということである。

高齢者になれば、合気道の稽古は絶対的な稽古にならなければならないだろう。さもなければ、合気道の目標に近づけないだろうし、稽古を続ける興味もなくなってしまうだろう。稽古、修行に終わりはないが、自分で止めざるを得なくしてしまうことになる。

80歳にもならないのに、年だからもう稽古ができない、などと言うのは、自分の稽古、絶対的な稽古をしていないからであると思う。開祖は、50〜60歳は鼻ったれ小僧といわれていたが、その年齢ではまだ相対的稽古であるから、合気道も世の中の事もまだまだ分っていない、という意味でもあったのだろうと考える。

私も、人は80才を過ぎないと一人前になれないだろう、と思っている。自分がそうだし、世の中を見てもそのようだ。世の中ですばらしいと思える人は80歳以上であり、そして、自分と戦っている人たちである。

高齢者の家庭では、夫が働いていた時と違って、家にいるようになると夫婦がうまくいかなくなるということを聞く。それは、以前の相対的な生き方を続けているからであると思える。

まずは絶対的な生き方で、80歳までがんばって生きたいものである。