【第378回】 手は折れずに一本で使えるよう、また、各部は独立して自由に使えるよう

技をかける時だが、初めの内は手が折れ曲がってしまうものである。そうならないようにするには、手を一本にして使えるように、稽古しなければならない。そうでないと、本格的な稽古もはじまらないだろう。

折れ曲がらないように注意しながら、意識して稽古していけば、折れ曲がらない手ができてくる。注意することは、手を螺旋に使うとか、息に合わせて使う、手先と腰腹を結んで腰腹で手先を使うこと、などである。

しかしながら、折れ曲がらない手ができて、一本で使えるようになったことで、手が完成するわけではない。

合気道には、完成、完全ということはない。ただ、完成、完全に向かい、そしてそれに近づくだけである。しかしながら、そこへ向かって進むためには、それまでやってきたのと逆なことをやらなければならないという、皮肉な宿命も合気道にはあるようだ。「あおうえいの教え」にもあるように、真逆のことをやることによって、対照力、エネルギーがでてくるのであろう。

合気道の技に大きい力、エネルギーが出るのは、この対照力、つまり、俗に言う、パラドックスに満ちているからだと思う。例えば、「力に頼らないが、力は必要」「倒しては駄目、相手が自ら倒れる」「ぶつかって、ぶつからない」「速く動くためには、ゆっくり動く」「相手が一人の時は多人数と、多人数の時は一人と思う」など等である。

折れ曲がらない手ができて、使えるようになったら、今度は、その折れ曲がらなくなった手を、関節毎に分解して使えるようにするのである。手首、肘、肩を支点にして、その支点の下(体の中心に遠い方)を自由に使えるようにするのである。もちろん、それでも、手は一本の手として使われなければならない。曲がるのはいいが、折れては駄目である。

では、そのためにどのような稽古をすればよいか、ということになるが、稽古は通常やっているもので、特別の稽古ではない。意識の問題だけである。合気道の基本技は、そのようにできているはずである。

例えば、一教、二教、三教、四教である。しかし、注意しなければならないのは、この稽古、鍛錬は受け側ではなく、技をかける側である捕りのものである、ということである。

先ず、手の先端の手首から先を自由に動くように鍛えなければならない。それには、一教(正面打ち)が最適である。相手が正面打ちで打ってくる手の尺骨を、己の手刀で結び、相手の手を切り結ぶ際には、小指と薬指(理想は小指だけ)でやらなければならない。最後の相手の手を床に抑える際にも、手先に腰腹の力を集中し、手刀でおさえなければならないのである。

一教は、手首から先の手が十分に使えなければ技が効かない。だから、手先を鍛えるよい稽古になる。また、手首の先を動かすためには、手首の上(体の中心に近い方)を使わなければならないので、特に前腕の鍛錬にもなる。

次に、手先の上の前腕(手首と肘の間)を自由に使えるようにする稽古である。肘を中心に上腕を動かして、前腕を使うのである。その稽古に最適なのは、二教である。腕は折らないままで、しかも一本に使いながら、前腕を独立させて、自由に技をかけるのである。二教のポイントはこの前腕の動きであるが、前腕を独立して自由に動かすのは、肘の上にある上腕である。二教は、手の前腕と上腕の鍛錬によい。

その次は、上腕(肘と肩の間)を独立して自由に使うことである。そのために最適な稽古は、三教だろう。肩を中心に、肩と胸鎖関節の間の部位を動かして、上腕を使うのである。三教は、手の上腕と、その上の肩と胸鎖関節の間の部位を、独立して自由に使えるようにする稽古によい。

最後は、胸鎖関節を中心にし、胸鎖関節と肩の部位を、独立して自由に使えるようにする稽古である。この部位に力を出すためには、中心の胸鎖関節の反対側の部位(胸鎖関節と肩)を使うことである。ここを鍛える最適な稽古は、四教である。従って、四教は胸鎖関節を中心にして、胸鎖関節と肩で相手の手を絞って落とすことになるはずである。

一教、二教、三教、四教は基本技ということで、通常ただ何となくやっているだろうが、このように意識して見てみると、実は、手先から、前腕、上腕、肩から胸鎖関節の部位を、順序良く鍛える重要な稽古法でもあるわけである。

もちろん、手の各部位を独立して自由に使えるようになる稽古は、一教、二教、三教、四教の他にもある。例えば、片手取り呼吸法である。手先、前腕、上腕、肩から胸鎖関節の部位を、独立して使うのである。 また、かっての稽古時間で有川師範は、片手取り四方投げを手の各部位をつかって示されたことがあった。

そう多くもない基本技を繰り返し々々稽古しても、飽きずに続けたり、合気道に魅力を感じるのは、このようなことが潜んでいるからであり、それを無意識の内に感じているからかもしれない。そうとしたら、それを意識化したいものである。