【第367回】 性(さが)と技

半世紀にわたって合気道の稽古をしていると、不思議に思うことはいろいろあるが、その一つに、同じ技づかいをする人がいないことがある。同じ一教をやっても、一人として同じようにはやらないものである。

開祖の晩年の直弟子であった先生方は、見事といえるほどそれぞれ違っていた。開祖や吉祥丸二代目道主の他に、籐平光一、斉藤守弘、有川定輝、山口清吾、多田宏、大沢喜三郎他の師範方に教えていただいたが、各師範の技づかいはまるで正反対といってもよいくらいに違っていたと思う。正反対であっても、間違っているわけではない。なにしろ、師範の先生方なのだから。

合気道の技は宇宙の法則に則っているので、法則性があり、誰がやっても同じにならなければならないのに、このように違ってしまうのが不思議である。

この問題を解決してくれたのが、次の開祖の言葉である。曰く、
「合気の道を究めるには、まず真空の気と空の気を、性と技とに結び合わせ、喰い入り乍ら技の上に科学を以て錬磨するのが修業の順序であります」(合気真髄)

つまり、宇宙の気(真空の気)を吸い、大地の気、森羅万象の気を性(さが)と技にむすびつけて、技を練磨していくのが、合気道の修行である、ということになる。

性(さが)とは、人が生まれながらに持っているもの、生まれつきの性質、持って生まれた性分などである。だから、合気の稽古は、気(天地のエネルギー)を技だけではなく、性(自己)にも食い入らせ、技と性を練り上げて行くことである、ということになるだろう。

人はみな、分身分業で宇宙生成化育のお手伝いをする使命をもっているわけだから、性は一人一人みな違うように創造されているわけである。また、その性はますます個性を帯び、他との違いもできるだけ大きくなるように導かれるのだろうと考える。

性(さが)を無視して技だけの練磨をすると、技は法則のように規則的につかわれることになり、誰がやっても産業用ロボットのように同じものになってしまうだろう。だが、性を練磨し、そして性と技が相乗効果を持ちながら鍛錬されると、個性が出て、各人が違う技づかいをすることになるわけである。

ということは、一つには、技の練磨も大事であるが、性(さが)の練磨も大事ということになるだろう。二つ目には、自分と違った技づかいをしても、その人の性に基づくやり方でやっているわけだから、間違いなどではない、ということにもなる。