【第366回】 一年で

今年も数日前に誕生日を迎えた。誕生日など自分の生まれた日にちということなので、どうということはないが、ひとつ大事にしているのは、昨年の誕生日からちょうど一年過ぎたところで、その一年間で自分がどれだけ変わることができたかを知る尺度になるからである。

自分がどれだけ変わったかを知るのは、一般には難しいことであろう。人は変わりたいとは思っているだろうが、どれだけ変わったかなどは、あまり知りたがらないようであるし、また知ろうと思っても、知りようがないのではないだろうか。

そこへいくと、合気道の稽古では、上達して自分を変えようとするわけだから、稽古を通じて、ある程度は自分がどれだけ変わったかわかるのである。例えば、一年前にはできなかった技ができるようになったとか、苦手な相手ともうまく稽古ができるようになったとか、体が動くようになったとか、開祖の難解な言葉がわかるようになったとか、等などということで、変わったことがわかるのである。

私も合気道のお陰で、この一年にだいぶん変わってきたと思う。まず、身体が柔軟になった。筋肉が伸びるようになり、関節の可動範囲も広がった。最大の収穫は、年を取るから身体が硬くなるのではなく、何もしないでいると硬くなってしまう、ということが分かったことである。つまり、身体はいつまでも鍛錬しなければならないことになる。

次に、開祖の言葉で、一年前理解できなかったものが、少しわかるようになった。『武産合気』と『合気真髄』は少しずつではあるが、毎日読んで頭をひねっているが、一回ごとに前には解らなかったことが、少しではあるが解ってくるのである。解ったときには、解ったことがうれしいだけでなく、これで自分が変わるということが、さらにうれしいのである。

さらに、私の場合は合気道に関する小論文を書き続けているわけだが、この一年間、休むことなく書き続けることができたということで、怠け者の自画自賛ではあるが賞賛に値すると考える。これは毎週4編ずつ書くという無変化に意味があり、一度でも休めば変化したことになってしまうので、このような変化は避けたいものである。ということは、変化には避けたいものもあるということになる。

誕生日から誕生日までの一年間で、いろいろと新しいことを身につけたり、できなかったことができるようになったのであるから、自分が変わったわけである。これは、ポジティブな変化といえるだろう。

しかし、ポジティブとは言えない変化もあった。それは、自分はいつかは必ず死ぬということを、これまでになく自覚したことである。それと同時に、自分のできること、知っていることなど微々たるもので、世の中のことはほとんど知らないということも分かってきた。人類は科学の発達で何でも知っているように思っているようだが、人類が知っているモノなど、宇宙の中の4〜5%ということだ。きっと、そんなところだろう。

このネガティブと言ってもいいような変化があったからだろうか、自然の草木や鳥獣、それに子供たちの笑顔に、これまでになく魅せられるようになった。これが次の誕生日までどのように変化するのか、楽しみである。