【第365回】 時間を惜しむ

高齢になり、仕事もしなくなれば、時間もたっぷりできて、いろいろなことができるだろうと考えていたが、その予想は大分はずれたようである。

仕事から引退すると、合気道の稽古に加えて、旅行したり、温泉も楽しめ、美味いものの食べ歩きもできるだろうと思っていた。それができたのは、初めのうちだけで、後は旅行も温泉も食べ歩きも、気が向いたときたまに行くだけとなった。

このギャップはどこからくるのかというと、年のせいではないだろうか。仕事を引退してあれこれやろうと考えた時と、実際に仕事を離れた時では、ギャップがある。ギャップとはなにかというと、まずは体力のギャップである。旅行をしようにも、また美味い物を食べるにも、体力が衰えてくると、それほどやりたいとは思わなくなるのだろう。

もう一つは、その時ほど興味を持たなくなったことがある。そして最後に、時間が惜しくなったことである。

一つ言えることは、若いうち、つまり高齢者になる前に、できるだけやりたいことをやり、行きたいところに行き、食べたいものを食べておいた方がよい、ということである。定年になってからやろうなどと考えると、やりたいことをやらずに終わることになってしまうのではないだろうか。

自分自身を見てみると、若いときも、忙しいといえば忙しかったが、いろいろやりたいことがあったし、いつも挑戦し続けていた。お陰で行きたいところも行ったし、食べたいものを食べたと思う。

若い時のモットーは、毎日、何か新しい体験をすることであったので、いろいろな体験ができたと思う。時間をもてあますこともあったように思うが、先には時間が十分あると思っていた。若い時の忙しさは、多種多様なことをひとつでも多く体験したいという、いうなれば「量的な忙しさ」といえるのではないか。

年齢を重ねてくると、やること、やりたいことが絞られてくるものだ。合気道でいうところの使命感を感じ、それを持つようになるようである。年を取ればとるほど使命感が強くなり、精力と時間をつぎ込むようになって、飲み食いや旅行などの他の事には興味がなくなってくるのであろう。

本当にやりたいことをやるようになると、時間がもっと欲しいと思うようになる。完成には到達できないことを知りながら、完成を目指すロマンティストは、おそらく芸術家、科学者、武道家等などを問わず、もっと時間が惜しいと思うはずである。

開祖は、人は分身、分業によって生成化育をし、宇宙楽園建設のお手伝いをしている、と言われている。そのため、各人には使命があり、その使命を全うしなければならないのである。そして、その使命を果たしていくことを「吾勝」という。正勝・吾勝・勝速日の吾勝である。

各自で使命は違っているであろう。人がみな同じ使命だったら、宇宙の生成化育は難しいし、宇宙天国の建設も不可能だろう。各自が分身・分業での使命を果たしていくから、それが可能になると考える。ある人の使命は、子供や孫を育て上げること、ある人は、子供たちや若者を教育すること、ある人は、自然環境を守ること、ある人は、絵を描くこと、ある人は歌を歌うこと、ある人は、会社を興し従業員や世界を豊かにすること、また、ある人は、武道を後進に伝えること等など、無限にあるだろう。

高齢者となって時間を惜しむようになるのは、使命に挑戦しているということでもあるだろう。時間をもてあますようでは、使命を果たしていないことになる。

少なくとも、合気道を修行しているものは、高齢者になったなら、使命を自覚し、使命に挑戦し、その使命をどんどん掘り下げていく「質的な忙しさ」で、時間を惜しむようになりたいものである。