【第362回】 不思議に思う

年を取ってくると、余裕ができてくる。定年になり、会社に行く必要がなくなれば、いつまで寝ていてもよいだろうし、起きていてもよい。何をやってもよいはずであるから、自由であるはずだ。

しかし、この自由というのは曲者のようだ。よほど注意しないと、この自由という曲者にやられてしまう。

多くの高齢者は、この曲者と戦っているようである。その戦いの基になるべきものは、「人は生産的に生きたい」ということだろう。何か社会のため、人のために生きないと、生きているという実感をもつことができないということだろう。

合気道を修行すれば、誰もが宇宙や地上天国建設のための生成化育のために生まれ、生きているということを教わる。だが、学校でも社会でもそのようなことは教えない。だから、学校や会社などの生産活動から離れた時に、どのようにすれば「生産的にいきることができるのか」を自身で考えなければならなくなる。

私としては、合気道をやって、開祖の言われたことを勉強し、身につけていくのがよいと思うばかりである。

自由が享受できれば最高であるし、高齢者はそれができるはずである。誰に邪魔されることなく、自由にものを見、考え、行動するのである。人や社会に迷惑をかけない限り自由である。

自由であるメリットは、自分の中から何が飛び出してくるか分らないこと、そして、予想もしていなかったことに、自分が驚いたり、関心したり、落胆したりできることである。

生産活動に生きていたときと違い、損得に関係なく自由に見たり、考えたり、判断できる。生産活動にある人は恐らく価値を認めないだろうし、興味もないだろうが、こちらも他人がどう思おうと関係なくやれるのがいい。

アパートの屋上から毎朝まわりを眺めていると、大小の建物が建ち、電車はひっきりなしに走るし、道路では忙しく自動車や自転車が走っている。そんなものを見ていると不思議に思えてくる。かつてはこんなものは無かったし、ここで電車や車の代わりに、恐竜が走り回っていたかもしれない。また、それ以前には海だったろうし、その前は火の玉だったはずだ。火の玉でそれ以外は何もなかったところに、今では電車や自動車があるのである。まことに不思議である。

宇宙を考えれば、もっと不思議である。それこそ何もなかったところから、銀河、星、地球、そして人類ができてきたのである。不思議である。科学の世界でも、5つの宇宙の基本的な不思議の問題が残されているというから、我々が不思議に思うのは当然だろう。因みにその残されている問題とは、@宇宙の一様・等方性 A宇宙のはじまり B宇宙の年齢 C宇宙の大きさ・形 D宇宙の終り、であるという。

不思議に思うことはいくらでもある。いつも不思議に思うのは、自分の体、人の体である。なぜ誰がなんのために、どのようにして、このように精巧なものをつくったのか。なぜ地球上の人間は同じ形なのか。なぜ手が二本、足が二本なのか。なぜ三本の手や八本の足ではないのか、等など。

自分がこの世に生きていることが、不思議である。死んでもおかしくなかったことが数度あったが、それでもまだ生きている。これは、生かされているのか、それとも偶然なのか。

なぜ合気道の稽古をしているのか、そして、したいのか。何かに導かれているのか、偶然なのか。(実は、空手をやるつもりだったが、偶然、合気道を知った)

年を取るに従い、不思議に思うことが多くなるようだ。テレビを見ても、新聞や本を読んでも、知らないことが多いというより、ほとんどのことは知らないということが分ってきたし、そして、不思議に思うことが増えてくる。

まだまだ知りたいこともあるし、不思議を堪能したいから、健康でもう少し長生きしたいものだと思っている。