【第361回】 幽界の稽古

合気道創始者である植芝盛平翁は、合気道とは何かを、「合気道とは、いいかえれば、万有万身の条理を明示するところの神示であらねばならないのである。過去ー現在ー未来は宇宙生命の変化の道筋で、すべて自己の体内にある。これらをすみ清めつつ顕幽神三界と和合して守り、行なってゆくものが合気道であります」(「合気真髄」)と説明されている。

この要約を試みてみると、合気道は宇宙の営み(条理)を形にあらわさなければならない。過去ー現在ー未来はすべて自分の体内にあり、現在だけに生きているのではなく、過去にも未来にも生きているのである。宇宙の営みの形(技)と、過去ー現在ー未来がある自己の体内を、禊である稽古を通して清めながら、顕界・幽界・神界と和合し、また顕界・幽界・神界が乱されないように守るべく、稽古していかなければならない、ということだろう。

大先生、つまり植芝盛平翁は、ご自身が顕界・幽界・神界に出入りされていたと語られている。ご自分の分身の霊と剣の修行されたといわれるから、幽界の稽古をされたことになり、詔を奏上すると神々が降りてきて神々とご一緒されたといわれるから、神界にも遊ばれたのでる。

晩年に、本部道場で我々稽古人に神楽舞を見せて下さったが、1,2分の舞いが終わられて、時々、ほんの一瞬だが、自分は今どこにいるかを確認するような目で周りをご覧になったことを思い出す。

当時は、どうしてそのような目で周りをご覧になるのか、不思議にも思わなかった。今、考えると、大先生は神楽舞を舞いながら、幽界か神界にいらっしゃっていて、舞いが終わって顕界に戻られても、まだ神界か幽界にいるのかという思いがして、顕界にいることを確認されるために、あのような目になったのではないのだろうか。

大先生がいわれたように、顕幽神界はあるはずであり、従って我々稽古人は顕界だけでなく、幽界や神界での稽古もしなければならないだろう。では、どうすれば幽界や神界の稽古ができるのか、考えてみたいと思う。

顕界というのは、通常われわれが生活し、稽古している世界である。これは目に見える世界であり、もの主体の魄の世界であろう。金や腕力などのパワーがものをいう世界、自分と他を比較する相対的な世界、他に負けないようにという競争の世界、外見重視の世界等など、といえよう。

顕界を、大先生は人の世界といわれている。そして、幽界を仏(ほとけ)の世界、神界を神の世界といわれる。

我々はまだ顕界の稽古、人の世界での稽古をしている。もちろん、顕界の稽古を積むのも大事なことである。体や気迫を練らなければならないからである。しかし、ある程度、顕界の稽古をしたら、次の幽界の稽古に入らなければならないと思う。

顕界だけで稽古をしていては、魄の稽古から逃れることはできず、そして次の魂の稽古に進めないからである。

では、合気道の稽古を幽界で行うには、どうすればよいだろうか。禅宗や密教などの宗教では、幽界に入るために、座禅を組んだり、お経を唱えたり、儀式をする。だが、合気道は道場で稽古中に座禅を組んだり、お経をあげることはことはできない。だから、技の練磨で体を動かしながら、幽界に入り、幽界で稽古しなければならないことになる。

合気道の稽古で幽界に入り、幽界で稽古するということは、仏の世界に入ることということであろう。それは、例えば、師と仰いでいて亡くなられた方が、自分の稽古を見て下さっていたり、稽古の相手をして下さると思う世界で、稽古をすることであろう。

顕界の稽古では、相手の“人“や力や外見を意識したり、相手や周りの人を意識した稽古をする。これに対して、幽界の稽古は、見えない人、つまり仏様(亡くなられた先生)と稽古をするのである。大先生や有川先生がご覧になっていると思って、稽古するわけである。まず、うまいといわれるはずはないだろうし、それよりも、もっと気を入れてやれとか、まだまだ技が甘いとか、それは危険だ、間違いだ、などとお小言を頂戴するはずである。これが、見えない方々との稽古、幽界の稽古になるだろう。

この他に顕界から脱し幽界に入って稽古をするためには、顕界のように意識ではなく、相手の無意識に働きかける必要があるだろう。つまり、力とか相手を制するとかではなく、共に生成化育のお手伝いをしているのだという愛の心で、相手の心と合気することである。そのためには表層筋を使わず深層筋を使い、天之浮橋に立って、天地の息に合わせ、陰陽水火の結びで技をつかっていかなければならないはずである。

幽界の稽古は上記のようにすればよいと考えているが、稽古のために幽界に入るのも容易ではない。稽古に入る前に顕界を離れ、俗事を忘れることである。稽古前まで道場で俗事をぺちゃくちゃしゃべっているようでは、幽界には入れないだろう。道場に入る際には丁寧に礼をするという儀式をしっかりやって、俗事を払い落とさなければならない。

最も大事なことは、道場は世俗を離れた世界である、ということを認識することである。学校の運動場とかジムのトレーニングセンターと同じように道場を考えると、上達などできないだろう。

神界は神の世界であるから、神と一緒に稽古をすることになるのだろう。しかし、これは今のところ、どうすればよいのか分らない。幽界の稽古をやっていけば、もしかすると道が開かれるかもしれないと期待している。