【第36回】 天の岩戸開き

道場で技を掛け合って稽古をしていて、相手を倒してやろうとか、関節を決めてやろうと力んでやると、必ず相手はそれに反応して力で逆らってくる。逆に、相手をやっつけてやろうと考えず、合気道の理にかなった動きと力(例えば、居つかず、左右陰陽で、肩を貫いた力)、そして相手とむすぶつもりでやると、相手は意識では倒れないように思っているようだが、気持ちよく反応して、皮膚がくっ付ついてき、むすんでくれるようである。

日常の力を使って稽古をするとその稽古は日常生活と同じ次元のものになってしまう。稽古は非日常の次元でやらなければならない。日常生活はパワーの世界でもあるし、また、意識の世界である。だが、合気道で技を掛けたとき相手が倒れるのは、パワーで押さえつけられて倒れるのではない。自分から倒れたくて倒れるようになるのである。

また、一つの技がある人には掛かっても、ある人には掛からないということではまずい。万人に同じような結果にならなくてはならない。しかし、人は皆ひとりひとり違う。大きい体格の人もいれば、小柄な人もいるし、力のある人やない人、気の強い人や弱い人など様々である。これらの異なる人皆にそれぞれ対応しようと考えたら大変である。これからもいろんな人とやるわけであるから、永遠に解決できないことになってしまう。

確かに人は表面的にはみんな違っている。身体つき、考え方、経済的、文化的、また、日本人、外国人。どれを取っても違っているが、この違いはあくまで日常の次元においての違いである。

社会には、健康な人だけが生きているのではない。体の機能が十分に働かない人や、精神的肉体的に障害があって社会生活に支障をきたしている人、高齢のため歩行が困難な人、植物人間といわれるような意識のない人もいる。しかし、彼らもやはり人として、他の健康で社会でも活動している人と同じように「尊い」のである。魄の次元で見ると様々な人がいるが、魂の次元で見ると同じである。魂の世界では、身体的なことはなにも関係なくなってしまう。魂の次元、魂の世界で人を見れば、人はみな同じで、尊い。

人には人としての共通のモノがある。合気道の稽古における前述のような反応以外にも、例えば、程度の差はあるだろうが、たいていの人は綺麗なものをみれば綺麗だと思うし、悪いことよりも善いことをしたいと思うだろうし、少しでもいい方に変りたいし、人のためになりたいと思うものだろう。
これは大人も、子供も、女性も男性も、日本人も外国人もおなじである。

人だけでなく、動物、植物、鉱物とも共通のモノがあると思われる。人はもちろんだが、動物も植物も鉱物も地球という共通の母にもっている訳だから、そこには共通するモノがあるはずであり、従ってむすび合うことができるはずだ。人間、動物、植物、鉱物は外形は違うのだから、共通の次元は魂の世界であろう。この世界に入ると、例えば、人の考えも、動物や鳥のなき声の意味することも分かるのだと思う。開祖も、黄金体になられた時、鳥のさえずりの意味がわかったと言われている。

我々は通常、意識の世界(顕界・魄)で生きているが、無意識(霊界・魂)の力によっても生きている。そしてこの無意識の力は、われわれの意識している力をはるかに超える働きをもっている。合気道の稽古はこの無意識の世界(霊界)に働きかけ、無意識の世界(霊界)への扉を開けることだろう。これを開祖が言われた「二度目の岩戸開き」というのではないかと思う。

人は無意識のうちに時として、意識の世界から無意識の世界(霊界)、魂の世界に入りたいと思うものだが、なかなか思うようにいかない。それでつい酒を飲んだり、麻薬を吸ったりするのかもしれない。

開祖は合気道は「二度目の岩戸開き」であるとして「魄を土台となし、地場・地祇・いわさかとし、その上に人はひもろぎとなって、その使命を行うことである。そして引力の錬磨に進んでゆかねばならない(略)技の上に科学しながら武産の神より与えられた力を得なければならない」(『武産合気』)と、述べておられる。「岩戸開き」とは霊界の扉・魂の扉が開くことである。合気道の技は、「二度目の岩戸開き」のための秘儀である。