【第358回】 合気道は武道

合気道は、武道である。もちろん技を磨いて、人格を完成していく道であるが、もうひとつ、忘れてはならないがある。それは、先人が苦労して作り上げた日本の伝統武術の流れは、土台に人を制圧したり殺傷するような技術が入っていたということである。この殺傷・制圧の技術がない稽古をしては、武道ではなくなってしまうことになると考える。

しかし、合気道の稽古は、相手を殺傷したり制圧することを目的とするものではない。それでは、武術の世界に逆戻りしてしまうし、開祖の意思に反してしまう。開祖は、武道とは宇宙生成化育を妨げるものを排除していく道であり、悪を善に導く道であるといわれており、相手をやっつけるものではないといわれている。

では、武術的な要素を伴いながら、気持ちよく楽しく合気道の稽古をするためにどうしたらよいか、ということになる。

まずは武道であるから、捕りでも受けでもスキがないように緊張して稽古しなければならない。相手の前に立つとか、抑えている手が外れたり緩む、といったことがないように、体と心を使わなければならない。合気道の場合は、相手と一体化して技をつかっていかなければならないから、その一体化、いわゆる結びを切らないようにするのである。

この状態で技をかければ、相手の全体が見え、やろうと思えば、いつでも相手を殺傷でも制圧でもできることになる。

相手を制したり、決める、投げる、関節を決める、などが目的であるのではないが、それがいつでもできるようになっているからこそ、武道であると感じられるはずである。

武術のように、敵を制圧したり、関節を決めたり、投げ抑えるのは、合気道の技の稽古の目的ではない。だが、かけた技で相手が倒れたり崩れていなければ、その技は効いたことにならず、武道的には失敗ということになる。これが、武術と違う合気道の武道感であろう。

つまり、倒すのが目的で技をかけるのではないが、結果として倒れていなければならない、ということになる。それは、技をかけるプロセスが正しければ、その結果として相手は倒れる、ということである。従って、相手が倒れないのは、技づかいのプロセスに問題があることになる。

合気道は先人の武術や武道につながっていなければならない、と考える。過去につながっていなければ、未来にはつながらない。先人の残してくれたすばらしい、貴重な遺産の上になければならない。過去の遺産は、あるレベル以上になると誰も教えてくれないだろうから、自分で研究し身につけていかなければならない。

合気道が過去につながる、ということは、今の合気道に過去があり、そして未来につながっていくわけである。だから、今稽古をしている合気道に、過去・現在・未来があることになる。われわれは、時間を超越した合気道に取り組んでいるわけである。
合気道で稽古する技には、武術的な要素もなくてはならないし、時間を超越しての地球楽園建設のための要素もなければならないだろう。

もういちど原点に返って、合気道は武道である、ということを考えてみては如何なものであろう。