【第356回】 理合を求めて

合気道の修行には、これでゴールとか、卒業ということはない。決して卒業できないことがわかってはいるが、それでも稽古を続けているのは、見方によっては哀れであり、滑稽でもある。しかし、その反面、ロマンでもある。私たち合気道家は、ロマンティストでありたいと願っている。

だから、自分は完成したとか、うまくなってもう学ぶことがなくなった、あるいは逆に、卒業できないのならば稽古を続けても駄目だとあきらめてしまったりするのは、ロマンではないので、同志にはなれない。

稽古は長く続けなければならないが、続ければよいということではない。長く稽古を続けることは必要条件であるが、十分条件ではないのである。十分条件は、上達するように稽古することであろう。

上達するとは、目標に近づくことであるから、まずは、稽古、修行の目標を持たなければならない。それは一人ひとり違うだろうから、各人がしっかり持たなければならないことになる。教えてくれるのを待っていても駄目である。各人の目標としては、健康になる、長生きする、けんかに強くなる、自分を探求する、宇宙を知る、自分はどこから来てどこに行くのかを知る、宇宙創造、宇宙との一体化など等、いくらでもあろう。

目標をもって合気道に入門した人もいるだろうが、稽古しながら発見する人もいるだろう。しかし、少なくとも10年、20年稽古したなら、自分の稽古の明確な目標は持たなければならないと考える。

目標を持たなければ、稽古の目標もないわけだから、稽古の方向性を持てず、上達もない。そしてそのうちにいつか、合気道が進むべき方向とは違った方へ進み、行き止まったり、戻るに戻れなくなってリタイア、ということになるのではないだろうか。

目標が持てたら、その目標に近づくべく、技の練磨を繰り返していく。しかしながら、稽古を長く続けるのとおなじように、技を繰り返し稽古することも必要条件ではあるが、十分条件ではないのである。

稽古の目標は各自異なるだろうが、共通することがあるだろう。それは、技が上手になることである。上手になればなるほど、どのような目標にもそれだけ近づくものであると考える。そうすると、稽古は技が上手になるようにしなければならないはずである。

そこで、どうすれば技が上手になるのか、を考えなければならない。ただし、上手とか下手の基準はあいまいである。相手を倒したり、抑えるのが上手とはいえないかもしれない。相手がただ弱かったからかもしれないからだ。演武がうまいのが上手ともかぎらない。場馴れしているだけかもしれないだろう。

合気道の技は宇宙の営み・条理を形にしたものであるから、合気道の技には法則性があるはずだ。合気道の稽古とは、技に潜む法則を見つけ、それを身につけていくものだと考える。それを技の練磨というはずである。

それ故、合気道での上手下手は、その人が使っている技にどれだけ宇宙の法則が入っているかということになるだろう。法則性があるということは、理に合っているということである。故に、宇宙の法則に則っている技は、理合の技ということになる。理合の技を使う人は、上手なのである。

理合の技とは、十字、陰陽、螺旋、円の動きの巡りあわせ、天地の息に合わせるなどなど無数の法則に則った技であろう。

それにまた、例えば、十字にもいろいろな十字があるから、それを取り入れた技にならなければ、理合の技にはならない。例えば、手の平を縦から横に十字に反す、手の縦の円の動きと横の円の十字の組み合わせ、足も撞木で十字、こころ(縦)と体(横)の十字、技を十字に使って相手を制する(分りやすい例としては、二.三・四教の関節技、片手取り呼吸法)などがある。

理合の技のためには、もう一つ大事な十字がある。それは、思想(縦)と実技(横)の十字である。実技(横)は誰でも一生懸命にやるが、思想の(縦)がそれに比べて弱いか、欠けていれば、十字にはならない。それでは十字の技は使えないことになるから、理合の技にはならないだろう。

上達が少し止まってきたとか、壁にぶつかったなら、開祖が残された思想を「武産合気」や「合気真髄」で研究するのがよいだろう。開祖は、宇宙の法則で、十字の内では縦が先である、といわれている。だから、縦の思想は実技よりも大事かもしれない。

もちろん、縦の思想だけが立派でも、横の実技を伴わないものには、上手な理合の技はできないはずである。