【第355回】 愛

合気道においては、「愛」が重要であるようだ。なにしろ開祖が、合気道は「愛気道」であるとか、合気道は「愛の武道」であるとかいわれているのである。また、前回の「合気道の極意は愛とは」では、「己の心を宇宙の心である『愛』にしなければならない」と書いた。
しかし、合気道の「愛」は、日常で使われている「愛」とは違うようである。

一般に使われている「愛」は、辞書(「大辞林」)を見ると次のようになる:

合気道の極意の「愛」は、これらの意味を含んではいるが、前回も書いたように、合気道の「愛」は「上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ」ものであり、これが「宇宙の心」であるというから、もっと違う意味があるはずだ。

ちなみに、上下四方とは全方位の空間であり、古往今来とは、過去現在未来にわたる時間である。つまり、宇宙である。

「宇宙の心」は「愛」であり、この愛は過去現在未来の時間に関係なく、そして、空間は余すところなく隅々にまで及んでいる。ミクロの稽古の世界で見ると、動きや間に隙がない心ということになるだろう。

これが宇宙の愛の一つの特徴であるが、もう一つの特徴は、宇宙は愛を与えるが、その見返りを要求しないということであろう。

日常生活にも、上記のような愛がある。対象によって分けると、例えば親子の愛がある。子供の小さいときは、主に親が子供に与えるものである。これは本能ともいえる自然な愛ということができるだろう。しかし、子供が大きくなって、親が自分の愛に対する見返りを要求すると、その愛も変わってきてしまうようだ。

夫婦の愛は、お互いに与え合うものだろう。見返りを期待することもあるだろうが、適当にお返しをするのが夫婦円満のもとだろう。少なくとも、感謝という見返りでもよい。

これらの例から、「愛」とは何かをもっと簡単に定義してみたいと思う。
私の単純な頭からでる解釈は、「愛とは相手(対象)の立場に立って考え、行う心」である。

自分の立場だけで考えたり行動すると、相手は無視されたと思ったり、迷惑を被ったりすることになる。自分が相手の立場なら、こうやれば喜ぶだろうが、こうやれば悲しんだり、怒るだろうと思うことである。花や木に対してもそうだが、よしと思うことをするのである。これが、愛であろう。

合気道は愛の武道であり、愛気道といわれるのは、この相手の立場に立って考え、技をつかうということではないかと思う。こうやれば相手は傷めるから、これはやらないとか、受けの相手の体が硬いから、少し痛いだろうがもう少し伸ばしてあげようとか、体の使い方がわからないようだから、動きで導いてあげよう、等などである。

合気道が愛の武道であるということは、稽古相手を不愉快にしないためにただ力を抜いたり、気を抜いた稽古をすることではない。武道であるから、武道としての緊張感をもつよう、お互いに自分と相手の限界をレベルアップする稽古をしていかなければならない。この限界の稽古をすることによって、真の「愛」がでてくるように思える。なお、レベルアップというのは、目標に近づくことであるから、レベルアップするためには目標がなければならない。

合気道の愛は、宇宙の心の愛であるから、先述のように、時間と空間にすきなく及ばなければならないし、見返りを期待してはいけないことになる。もちろん、合気道を経済の柱にする時は、少しでも見返りがあるように、愛をそそがなければならないだろう。しかし、その場合も開祖がいわれているように、先ず、愛を与えることである。その結果、見返りがくるのである。見返りのために「愛」を出しても、よい結果はでないはずだ。

これらの愛の意味や合気道の意味などを総合すると、「愛」のもうひとつの定義が出てくるようだ。

つまり、愛とは、宇宙が目指している「宇宙生成化育」をお手伝いする心、その対象に及ぼす心、ということである。つまり、それに役立つことを言い、行うことになろう。「宇宙生成化育」は「宇宙の心」であり、「宇宙の心」は「愛」であるからである。

合気道は、宇宙の生成化育のお手伝いをするものであり、愛の武道、愛気道であることにつながってくる。プラトニックラブ(純愛)という愛があるが、合気道の愛は宇宙の愛“プラネットラブ”と言えるだろう。