【第352回】 急いては事をし損じる

合気道は、初心者のうちは、やればやるだけ上達するものだ。それは、誰もが経験し、認めることだろう。しかし、この上達というのは、合気道の技の基本を覚えることと、合気道の体の基礎ができたということ、であろう。
つまり、ここではじめて真の技の練磨の稽古がはじまるスタートに立った、ということであり、初段になった、ということになる。

合気道は技の形や呼吸法の稽古の中で、技を練磨しながら上達していくわけだが、これは一面、容易であるようだが、反面、非常に難しいように思う。

その難しさのひとつに、結果を目的化してしまうことがある。例えば、基本鍛練法である「片手取り呼吸法」をやると、相手が持っている手が外れようが、手足をバラバラに使おうが、体勢が崩れようが、受けの相手をなんとか倒そうとする。つまり、相手を倒しさえすればよいのだと、それを目的にしてしまうのである。

これは人の性であり、本能であり、ある意味では自然であるだろう。また、力を使うので、筋肉がつき、体力がつき、体がつくられることになるから、稽古する意義はある。初心者の内はこれでよいし、それしかできないだろうから、倒すことに専念してもよいだろう。

しかし、上級者はこれを卒業しなければならない。なぜならば、稽古が先へ進まないし、体をこわすことにもなるからである。

技(正確には技の形、例えば、正面打ち一教)はいうまでもなく、呼吸法でも、受けの相手が倒れなければ、技は効いていないということになり、駄目だということになる。

技をかけたら、相手は倒れなければならない。しかし、技をかけるのは、受けの相手を倒すのではなく、受けが自ら倒れるように、技をかけなければならないのである。受けが倒れることは結果であり、目的ではない。結果が出るためのプロセスを欠き、前提を見失い、結果だけに集中してしまうと、稽古の意味がなくなるである。

結果は、プロセスと前提から出てくる。結果を目的にするのではなく、正しい前提を踏まえ、結果が出るように、プロセスをしっかり踏まなければならない。

前提は、相手を倒すのではなく、相手は自ら倒れるということである。この前提を間違えたり、無視・軽視すれば、よい結果は出ない。

プロセスは、天之浮橋に立って相手と結ぶことから始まり、生産びの息に合わせて、体を十字と陰陽合致でつかっていくことである。このプロセスが宇宙の法則に則っていなければ、相手は倒れてくれない。

合気道の奥深さ、おもしろさのひとつは、お互いに相反する表裏、陰陽、顕幽(見える、見えない)等などが同居していることであろう。

初心者には相手が倒れるのは見えるが(顕、体)、相手が自ら倒れていくということ、倒れざるを得なくなったり、倒れた方がよいという思いで倒れていくことが見えない(幽、心)。すると、どうしても見える体を倒そうとしてしまうので、見える体を倒せばよいのだと思うことになる。

現代はますます忙しくなるので、結果を早く出そうとし、結果を目的化してしまう。しかし、結果を目的にしてしまうと、稽古はうまくいかないし、稽古の意味がなくなってしまう。稽古の原点にもどるべきである。

合気道の稽古の目的は、相手を倒すことではない。相手が倒れるようになるまでには、たくさんの学ぶべきことがある。それが身に着けば、その結果として、相手が倒れてくれるようになるはずだ。