【第347回】 楽しむ

人は誰でも楽しくありたいと思っているだろう。しかし、現実にはそれがなかなか難しいため、あきらめて暗い顔つきになったり、最悪の場合は自ら命を絶ったりする。人身事故などの自殺は一日100人にも上るというのだから、そうとう厳しいことになっているということであろう。社会でも会社でも学校でもこう厳しいのでは、楽しむことなど難しいようだ。

物質文明の競争社会にあっては、仕事でも勉学でも、競争に勝ち、自分の思いを達成していくのは、至難の業である。ニコニコ楽しそうな顔などしていられないことだろう。朝から夜遅くまで厳しい仕事をし、よい点数を取るための猛勉強をしていれば、楽しそうな顔などできないことだろう。

現実は確かにそうだが、そうだからと言って、しかめっ面をしたり、社会に懐疑的な顔をすることはないと考える。

合気道をやっているとわかると思うが、物事にはみな両面がある。よい面があれば、都合の悪い面もある。それを選択するのは、心であろう。見方と考え方を変えれば、いろいろなことが違って見えるものだ。

また、原点に戻って考えることである。例えば、きつい仕事を嫌々やったら、どんどん嫌になるだろう。受け身ではなく、能動的にやることである。例えば、目の前にある仕事に、挑戦してみるのである。その仕事に勝つために、知恵をめぐらし、情報を集めるなど、万全を期すのである。他の誰がやっても、それ以上のことはできないようにするのである。そうすれば、難しい仕事ほど面白くなるはずだ。先ずは気の体当たり、そして体の体当たり、そこから入身転換である。決して逃げてはいけない。

また、難しい仕事であっても、仕事があることに感謝しなければならないだろう。世間には仕事をしたくても、見つからない人が大勢いる。人には贅沢にできているところがあって、よく無い物ねだりをする。仕事があって働いているときは、仕事をしないで働かないことを夢みるが、仕事がなくて働くことができなくなると、働きたくなるものだ。よほどひどい仕事は別として、働けることに感謝すべきだろう。

学校も同じである。昔の日本でもそうだったが、世界には学校に行きたくてもいけない人が大勢いる。そう思えば、学校に行って勉強できることを幸せと思わなければならないだろうし、感謝しなければならないだろう。感謝できるようになれば、学校を楽しむことができるようになるだろう。

1964年の東京オリンピックの頃まで日本は貧しかったが、人は今よりも楽しそうな顔をしていた。その翌々年、日本より豊かになっていたドイツに行ったが、街で見るドイツ人の顔が日本人の顔より暗いという印象を持ったことを覚えている。しかし、今の日本人の顔は、その暗い方に変わってしまったようで残念である。

最近、気になる顔つきのひとつに、音楽家がいる。先日、テレビでオーケストラによる演奏会を見ていると、中にはあまり楽しそうに演奏していない演奏家もいた。好きな音楽をやって報酬をもらっているのなら、それほど楽しいことはないだろうに、楽しんで演奏していないのは不思議である。もちろん、楽団内や演奏家との関係、家庭の問題等などもあるだろうが、演奏している人が楽しくなければ、聞く方、見る方も楽しめない。音楽とは音を楽しむと書くのだから、楽しんで欲しいものだ。
楽しむということは、ニコニコ顔をすることではない。最高のものを出すために挑戦し、それを聞き手に伝えたいという緊張感があれば、それを通じて、音楽が好きだということが伝わるだろう。それが聞き手に、音楽を楽しんでいていいな、と思わせるはずである。

そのよい例は、NHKの「のど自慢」であろう。出場者は緊張したり、意気込んだりしているが、歌うことが好きで、歌を楽しんでいるというのが、顔や体からにじみ出ている。そこには、歌を歌える喜びと感謝があるようだ。

合気道も、同じである。合気道ではいろいろな人が稽古をしているが、共通していることは、合気道の稽古を楽しむために集まっていることであると思う。楽しくないなら、わざわざ時間を割き、お金をかけ、労力を浪費することはないだろう。

合気道を楽しむための方法は人によって違うだろうが、共通するものがある。それは感謝することである。感謝することが、喜びに出るのである。稽古ができるためには、健康で、経済的にある程度ゆとりがあり、そして時間が取れることが必要で、それへの感謝である。また、自分との闘いができる喜びや、技を見つけたり、身につけたときの喜び、明日への期待、来年の成長等などの喜びがあるだろう。

本部道場で教えられていた有川定輝師範は、ご自身の合気道は「道楽」であるといわれていた。つまり、合気の道を楽しまれていたということである。先生は、合気道を本当に楽しまれていたと思う。時間、お金、エネルギーなど、すべてを合気道に使われていた。ご指導されておられたときの顔は隙のない厳しい顔をされていたが、合気道を真から楽しまれておられた顔だったとつくづく思う。

もちろん、開祖も武道家として厳しい顔をされていたが、合気道をこよなく愛し、合気の道を楽しまれておられたお顔だったと思う。だから、少しでも合気の道に合わなかったり、逆らったりするのを見つけられると、烈火のごとく叱咤されたのだと、今になって思う。

楽しいためには厳しさがなければならないようだ。楽しい顔になりたければ立ちはだかる厳しいものに挑戦していかなければならないだろう。
楽しそうな顔、道楽の顔になるよう厳しい稽古を続けていきたいものである。