【第345回】 高齢者のがんばっている姿

合気道の道場稽古は、指導者が示す技(技の形)を、相対でくりかえし稽古していくものである。稽古人は相手と組んで受けを取ったり、捕りで相手を投げたり抑えたりしているから、周りの稽古人がどのような稽古をしているかは、ほとんど見ないだろう。

長年稽古していても、せいぜい自分のまわりの稽古人の様子しか見ていないものだ。だが、たまに相手がいなくて座ったまま稽古を見ていたり、見取り稽古をしていると、いろいろと目に止まることがある。

よく目に止まるのは、高齢者が若者に負けじとがんばって稽古している姿である。これには感服されるものである。若者のがんばりにはどうしても欲が見えてしまうため、あまり感服しがたいものがあるが、高齢者にはがんばったからどうという欲が無いところがよいのだろう。

自分もどんどん年を取っていくが、いつまでそのようにがんばって稽古を続けられるかと、自分と重ねて見るので、目につくのかも知れない。

私が入門して2,3年たった頃も、まだ大先生はご健在だったし、稽古人は今ほど多くはなかったが、強い先輩方がいたので、我々若い者は思いっきりぶつかって稽古することができた。思いっきりというのは、精魂尽きる寸前まで、と言えるかもしれない。毎日、二時限以上の稽古をやり、休み時間も稽古していたものだ。足腰が立つあいだは、稽古しないと満足できなかった。

しかし、道場を一歩外に出ると、今までの元気はどこへやら、足が進まなくなるのである。道場から目の前の抜け弁天通りまでの間、家の前の「ごみ箱」に2度3度と腰を下ろして、休みながら帰ってきたことが何度もあった。

その頃、ひとりのご老体の方が稽古されていた。この方は大学で哲学を教えておられた教授で、定年間近のお年だったが、老人扱いされるのが嫌いで、われわれ若いものと一緒に思い切り稽古をしていた。受け身も今とは違い、ひと技ごとに前受け身だけでなく、後ろ受け身も一回転して取っていたので、相当な重労働であったはずだ。

よくがんばるものだと感心していたが、ある時、道場でその教授からお話を伺うと、やはり相当こたえるとのことで、稽古の後、自宅まではなんとかたどり着くが、玄関に入ったとたんに歩けなくなり、玄関から自室まで這って行くということだった。

これを聞いて、この先生との稽古は少し手加減しようと思ったのだが、当の先生は、手加減しないで欲しいとおっしゃるので、またまた感服した。

技がうまいかどうかということとは別であるが、この一生懸命にがんばる姿には感動したものだ。自分も年を取ったら、この感動を後進に伝えることができるようにがんばろうと思ったし、今もそれを思い出しながら、しっかり稽古をしなければならないと思っている。