【第341回】 無心に稽古

習い事をするときは、無心にならなければならない、といわれるが、合気道の稽古も、無心にならなければならないはずである。

無心になるためには、まず「無心」とはどういうことか、を知らなければならないだろう。いろいろな解釈があるだろうが、私は「無心とは主観をなくす」ということではないかと思う。主観をなくすとは、自分をなくす、自己を消すこと、と言えるのではないだろうか。つまり、自分のやり方はこうだからそうするとか、自分はこう考える、これは好きだとか嫌いだ、等の思いを消すことであろう。

無心になる、主観をなくす、思いを消す、ということは、つまり、自分を中心にものを見たり、考えたり、行動しないことであろう。そうではなくて、自分の体も心も全体の一部とし、全体との調和を乱さないでつかうことである。

相手を倒そうとか抑えようとして、体と心をつかうのではなく、いかに相手と結び、宇宙の法則に則り、宇宙エネルギーを取り入れ、宇宙との一体化を図って、自分を宇宙に溶け込ませていくか、ということであろう。

無心になる、主観をなくす、思いを消すということは、何も考えないとか、何もしないことではない。何か目標があり、それに挑戦するための必要条件といえる。稽古をやっているのに、無心など関係がないと思っているうちは、まだ目標がわかっていないか、そのための挑戦をしていないことになるだろう。

無心にならなければ、駄目である。主観をなくさなければ、主観が邪魔をして、見つけようとしているものが見つけられず、見えるものが見えずということになり、宇宙のエネルギーや営みなどを感じる邪魔をしていることになる。

故有川定輝本部道場師範は、常々、稽古は無心でやるようにと指導されていた。稽古中に、相手に教えようとしたり、自分ができるとか、強いということを、アピールしようとする者は、厳しく叱責されていた。

師範は「無心に稽古するとき、自ずから技に人格が現れる。技は人間が本来持っている宇宙生命力(気)の動きどおりにて千変万化、固定化は有り得ない。」(「千葉工業大学合気道部部誌「和」創刊号」)と言われていた。

技は人格の表現とも言われている。無心で稽古することによって、技に人格がつき、そして、千変万化する宇宙生命力に則った技によって、自分という人格(個性)をもった人が創られる。無心で稽古をしていけば、誰も同じ人間にはならないし、同じ技つかいをすることもなくなる。また、技も人間も千変万化し、固定化することはない。人も技も、変わっていくものなのである。

技も人間も、これで完成ということはない、ということである。技や自分がこれで完成しているとなれば、無心に稽古していないか、無心に稽古をしなくなってしまったことになるだろう。

合気道は、無心に稽古を続けるしかないだろう。