【第338回】 神業の鍛錬

合気道は、技を練磨して精進していく武道である。練磨する技は、宇宙の営みを形にした、宇宙の条理に則ったもの、そして、宇宙の教えを描き出すものであるといわれている。従って、技は真善美を備えた、無駄なく、時と場所に適応する力の、愛に満ちた普遍的(例外のない)な、宇宙の教えに反しないものであるはずである。

技を極めるのは、容易ではない。これは、我々合気道の同人が、日頃身にしみて何とかしなくてはならないと悩んでいることなので、この難しさは改めていう必要はないだろう。

なぜ技を極めるのが、それほど難しいことなのだろうか。それは、技は宇宙の法則に則った、普遍的なものでなければならない、ということにあるだろう。従って、このように極めた技を使えるのは、人間にはできないはずで、できるとしたら神様しかいないはずである。

人間もたまに宇宙の営みや法則に則った技を使い、神業であるといわれることがある。だが、人間はたまに神業を出しても、いつでもどこでも神業を出すことはできないだろう。もし、神業をいつでも出していたら、人ではなく神様であることになる。

さらに、神業とは神様のつかわれる業、つまり神様の営みであって、我々人間がある目的のためにつかう術や動作とは違うものだ、と思うからである。神様が無作為に営んでいることが神業であるが、人はその神業を見習っていかなければならないのである。

合気道は、神業の鍛錬ということにもなるだろう。この神業の鍛錬を通し、神業を身につけていくと宇宙の力が加わり、合気道の目標でもある宇宙との一体化が図られるようになるのだろう。

合気道の道というのは、技を極めていくということでもある。道を進んでいき、技を極めていくと、どうなるのかというと、真理が見えてくることになる。真理とは普遍的であり、何者も否定できないものだから、神ということにもなるだろう。従って、合気道の道を進み、技を極めていけば、神は見えてくることになるだろう。(有川定輝師範伝)

我々人間は神になって神業をつかうことはできないわけだから、神にすこしでも近づいて神業を使おうと修行することになる。たまに神業を使うことができ、そして、神業が出てくる頻度が少しでも増えてくれればよい。

人は神様のように神業を出し続けることは不可能だとわかっているが、人としてその不可能に挑戦するのだ。不可能とわかっていながら挑戦するのだから、悲劇であるが、それはロマンでもある。

合気道同人はロマンチストでありたいものである。