【第332回】 本質を見つける

合気道は、技の練磨を通して精進していく。この技の練磨は、通常、形の稽古を繰り返し繰り返しやっていく。合気道の技は宇宙の営みを形にしたものといわれるものなので、練磨している技には、広大で無限の営みが入っているはずである。

しかし、宇宙の営みが入っているわりには、技(の形)の数は少ないといえるだろう。技の形(例えば、一教、四方投げ等)がいくらあるかは明確ではないが、2年から5年ほどで覚えてしまうだろう。もちろん以前は技の数はもっと多かったが、時代と共に稽古する技は少なくなってきている。

50年前、私の入門したころは今よりたくさん技の稽古をした。今では、その多くが稽古されなくなっている。さらに、我々の先大輩でもあった有川師範は8000の技を知っていると言われていた。開祖は数万の技を産み出されたというから、合気道の技の数が少ないということはないようだ。といっても、技が8000とか数万あったとしても、宇宙と比べればやはり少ないだろう。

もし数万技を身につけたら宇宙と一体化した宇宙人になれるのなら、非常に難しいことではないだろうし、多くの名人、達人がいてもおかしくはない。しかし、それも無いようなので、稽古で求めているのは真の技(の形)ではないようである。

合気道には形がないといわれる。練磨する技にも、形はないようである。その形がない技を身につけていくのである。では、技を見つける、身につけるということはどういうことなのかということになる。

技は宇宙の条理であり、宇宙の営みを形にしたものと言われるから、技を見つけるとは、宇宙の条理・法則を見つけることであろう。例えば、円の動きの巡り合わせ、十字、螺旋、上下左右交互に規則正しく等などであろう。

それほど多くない技で宇宙の営みを身につけるのであるなら、その少ない技の稽古を大事にしていかなければならないだろう。どんな些細に見えることも見落とさないようにしなければならない。

例えば、攻撃法(取り)には片手取り、両手取りなどいくつか(実際は無限)ある。しかし、片手取りも、両手取りも同じように対処していては、稽古の意味がないだろう。

両手取りの稽古とは、両手を左右陰陽で交互に使う稽古である。片手取りでも、両手は左右陰陽で交互に使わなければならないが、意識して稽古するのは難しいだろう。これを、両手でしっかり覚えるのである。両手取りの稽古をする場合は、何を稽古するのか、稽古の本質を見つけてやらなければ、稽古の意味が半減してしまうことになる。

本質を見つけていくためには、心体をそれに集中して稽古していかなければならない。両手取りで手は左右陰陽で交互に使わなければならないとか、大きな力を出す武道の動きではナンバになるので、足と手は同じ側が一緒に動かなければならないとか、重心が左右、上下、つまり天地の息に合わせて螺旋で動くのがよい、ということなどが見えてくる。

技がうまくかからないのは、何か本質的な問題があるからである。相手が意地悪しているわけではない。相手のせいにしないで、問題の本質を見つけ出す方がよい。稽古とは本質を見つけて、身につけていくことである。