【第331回】 原点回帰

習い事はすべてそうであろうが、やればやるほど奥が深くなっていくようだ。特に合気道は、はじめ考えていたのとギャップが大きいし、長く稽古を続ければ続けるほど、奥が深くなり、底なしに思えるようになってくる。

合気道はお箸(はし)を持つ力があればできる武道、といわれる。子供からお年寄りまで、老若男女、国籍、地域、宗教、思想等などに関係なく、誰でも容易に始めることができる。また、試合もないし、稽古は勝ち負けを争うものではないので、危険もないし、健康にもよい。

そう考えると、合気道人口はもっともっと多くてもよいはずである。そうでないのは、おそらく入門者は多いのだろうが、長く続けることができず辞めてしまう人が多いのではないだろうか。残念なことである。それにはいろいろな理由があるだろうが、その一つに、壁にぶつかって辞めてしまうというのがあるように思える。

合気道は技の形を繰り返し稽古して上達するものだが、その技の形はそれほど多いものではないので、それを覚えるのは2,3年もあれば十分である。しかし、2,3年、いや10年、20年で合気道がわかるかというと、それがわからないのである。もちろん技の形は知っているのだが、益々わからなくなるのである。

これは、入門して10年目ぐらいで、まずぶつかる問題である。相対で形稽古をしても技が効かず、相手ががんばると倒れなくなり、今までの稽古はなんだったのかと疑問を感じて、将来の希望を失うわけである。そこで、辞めていく人が多いようだ。

習いごとには、やるべきことと、やる順序がある。合気道では、まず技の形を覚えることが大事であるが、同時に、合気の身体をつくらなければならない。筋肉や骨格を柔軟にし、心臓や肺を丈夫にし、多少の動きでも心臓がどきどきしたり、息がハアハアゼーゼーしないようにするのである。

また、技をかけるにあたって、相対の相手に気持ちをぶつけ、意識を入れて動いたり、技をつかうことによって、気力を充実させることも大事である。

つまり、はじめの3〜5年ぐらいは、技の形覚え、体力・気力づくりという、合気道の基礎づくりの時期であり、ここで合気道の道の入り口にきたことになる。

ここから本格的な合気道の修行にはいるわけであるが、それが容易ではない。前の段階までは、指導者から教えを請うことができるが、この段階からはそれも難しくなり、基本的には自分自身でしか精進できなくなるからである。

この段階からの修行は、「技の練磨」ということになる。だが、まずこの練磨する「技」というのが、難しくて分かりにくい。「技」は円の動きの巡り合わせである、などといわれるように、形はないようだ。また、「技」を生みだす仕組みの要素などというものがあるといわれるから、その要素も見つけ出し、身につけていかなければ、「技」を生みだせないわけである。

では、技の練磨をしなければならない段階で、「技」というものが分からずに、どのような稽古をしていけばよいのだろうか。わからないから稽古をやらない、というわけにはいかないし、今までと同じような形稽古をただ続ければよい、というわけでもないだろう。

合気道は技の練磨で精進するのだから、技の稽古をしていかなければならない。「技」がわからなくとも、技の稽古をしていかなければならないのである。難しいが、ある意味ではそう難しいことではないはずである。なぜならば、前の段階でやっていた技の形の形稽古をすればよいからである。

合気道は、初心者も上級者も、形稽古で精進している。合気道の形稽古には、それだけの意味と重要性があるからである。合気道で稽古している形は、「技」を凝縮・構成したものであるから、その形の中に「技」があるはずである。その部分のどれが「技」かは説明できないが、必ず存在しているはずである。

その形から「技」を引きだせるかどうか、どれだけ引き出せるか等は、本人の実力レベルによるはずである。だから、本当の技を少しでも多く出せるように、その技が入っている形を繰り返し繰り返し稽古しなければならないのである。

相対稽古で技をかけあって、技がうまくかかったりかからなかったりするが、うまくかからない最大の理由は、かけた技が不完全であるか、間違っているからであると考える。技が不完全というのは、その形も不完全であるということになるはずである。例えば、足や手が左右交互に規則的に働かなければならないところを、その法則が乱れれば、形も乱れ、技にはならない。

従って、技をつかい、技を練磨していくためには、技の形の形稽古をきっちりと、法則に則ってやらなければならない。

稽古で壁にぶつかったり、技が思うようにかからなくなったら、原点の形稽古にもどり、初心に帰って形を稽古するのがよいだろう。特に、正面打ち一教に回帰してやってみるのがよい。入門して初めにやる一教こそ、極意技であるようだ。