【第325回】 高齢者の稽古とは

古希を過ぎた今でも、自分が高齢者であるという実感は持てない。65歳の定年でそれまでの仕事に区切りをつけ、年金が貰えるようになったり、映画は安い高齢者料金で見られるようになったりするが、どうも高齢者、昔の表現では老人になったような気がしない。

かつては、人生50年と言われていたものだが、我々が子供だったその頃の時代とは、大いに違ってきているようである。

国や社会は制度の上で、60歳や65歳を高齢者とし、我々を高齢者に分類している。だが、100歳以上は3万人以上もいるし、平均寿命は80歳であることから、国も社会もそして個人も、このような考えは変えていかなければならなくなるだろう。

合気道では50歳、60歳は鼻ったれ小僧といわれる。修行している合気道のことが、まだ何も分かってないということである。学生の頃、開祖がよく「50,60は鼻ったれ小僧」と言われるのを聞いて、俺は鼻ったれ小僧ではないと思っていたものだ。しかし、古希を過ぎてみると、なるほど50,60歳のころは何も分っていなかったということが分かる。ましてや学生時代など、鼻っ柱だけは強かったが、合気道のことはほとんど何も分っていなかった。

50,60歳の鼻ったれ小僧時代を過ぎると、だんだん一人前になってくるようである。開祖が求められていた合気道が、みえてくるようになるのである。そして、古希になるころには、合気道の目標に向かうための道を見つけ、その道にのり、そしてその道を進めるようになるようだ。

高齢者の稽古は、「目標がなければ、道はできない。道ができなければ、道にのれない。道にのれなければ、道を進むことはできない。」を意識し、道を進んでいかなければならないと考える。

まず、これまでやってきたことを集大成し、修行の目標を絞り込んでいかなければならないだろう。若い頃のように、相手を意識した相対的な稽古から、自分主体の絶対的な稽古になり、そして合気道が目指している目標を見定め、それを信じて進んでいかなければならないだろう。

目標が定まれば、その目標と自分をつなぐ道ができる。しかし、道があるはずだが、その道にのるのが容易ではない。この道によじ登るためには、ハシゴが必要である。

そのハシゴは、合気道の技の練磨で得られるはずである。宇宙の法則である技(または、技を生みだす仕組みの技要素)を見つければ、それがハシゴになるだろう。その法則を身につけることによって、自分の身が宇宙に近づいていき、道に辿り着くことになる。道によじ登るハシゴはいろいろあるので、その一つでも見つければいい。

ハシゴを上って道にのったら、さらに技の練磨をし、道の先にある目標の宇宙と一体化すべく精進していけばいい。

高齢者には残された時間が段々少なくなってくる。少しでも早く道にのり、道を進みたいものである。