【第325回】 身体を超越する力

稽古は厳粛なものであるから、相対稽古の相手がどんな人でも関係なく、稽古することである。それでも、自分より小柄であまり力がない相手の場合だと、投げたり決めたりしても、それほどの喜びは沸いてこないものだろう。自分より大きい体格で、腕力の強そうな相手が、本気でぶつかってくるような稽古の後は、やはり充実感があるようである。

演武や他人の稽古でも、小柄な人が大きな人をぽんぽん投げるのを見るのは気分がよい。これが逆で、大きい人が小さい相手を、また、男性が女性を投げ飛ばしたりするのを見ると、違和感があり、不快になるのは私だけではないだろう。

人はロマンチストであり、ロマンを求めているはずだ。合気道の稽古人も、ロマンのために入門してきた人は多いであろう。つまり、合気道の技で、自分より強そうな者、腕力がありそうな敵を、チョイチョイがチョイと投げたり抑えてしまうようになりたい、と思っていたはずである。

しかしながら、稽古を続けていくうちに、そのロマンは少しづつ消滅していくようで、残念である。やはり、チョチョイがチョイのロマンは持ち続けていきたいものである。大きい者が小さい者を、強い者が弱い者を制したり、牛耳るのは愉快ではない。今の社会のこの物質文明を変えるのも、合気道の役割であろう。

合気道には、チョチョイがチョイのロマンの可能性が十分あるはずである。小柄であった開祖もそれを証明しているし、開祖の高弟や先輩の多くもそうであった。前例があるだけではなく、小が大を、弱が強を制する方法まで、開祖は『武産合気』や『合気真髄』に残されているのである。それを埋もれさせておくのはもったいないし、開祖に、そして合気道に申し訳ない。

もちろん、小が大を、弱が強を制するのは、そう簡単ではない。やるべきことを、ひとつひとつやっていかなければならない。

まず、合気の体をつくることである。必要な筋肉をつけ、骨格もしっかりさせなければならない。また、心臓や肺などの内臓を丈夫にし、ハアハアゼイゼイ息切れしないようにしなければならない。要は、まず稽古に耐えられる体をつくることである。

次に、体のカスをとらなければならない。一生懸命に受けをとり、技をかけて、稽古することである。心臓や肺などのカスが取れるようにし、また関節のカスや筋肉のカスを取るのである。

体のカスが取れてくれば、体が自由に動くようになるので、技が使えるようになる。技の練磨によって、さらに体が宇宙の法則に則って動くようにするのである。

法則で動けるということは、無駄がない、無理がないということであり、動きに強い力を使うことができるようになる。(これ以前では、思い切り力を使っても、相手が掴んでいる手が切れたり、離れたりして、力いっぱいの稽古ができない)

この段階で、遠心力を使って、思い切り力を最大限に入れた稽古ができるようになるから、力いっぱい稽古をする。これが、呼吸力による技の稽古になるから、稽古すればするほど、呼吸力という力がついてくることになる。

しかしながら、多少技がつかえるようになり、呼吸力がついても、大きい力のある相手を制するには限界があるだろうから、さらなる力が必要である。

開祖は「身体の武道のみにては、これを達成するにあたわず、身体の技は力少なし」(『合気真髄』P.61)と言われている。身体の力には限界があり、それ以外の力をつかわなければ、この壁は突き抜けられないということである。

つまり、「身体を超越した力」、「身体を超越した技」をつかうということであろう。開祖は「天の気によって天の呼吸と地の呼吸を合わせて技を生みださなければならない」(『武産合気』P.76)とも言われている。

今の壁を打ち破り、チョチョイがチョイのロマンを実現させるためには、これからこの「身体を超越した力」、「身体を超越した技」を研究していきたいと考えている。