【第324回】 法(のり)と道と技

我々が稽古しているのは合気道であるが、たいていの稽古人は、合気道とは何か漠然と分かったつもりで、稽古しているのではないかと思う。入門してからも、おそらく合気道とはこんなもので、こんなことが身につき、こんなことが出来るようになるなどと考えてやっているのではないか。

私の場合は、合気道を修行すれば「気合い」で敵を倒すことができるようになるのだろうと思い、入門したのである。「合気」と「気合い」を混同していたのである。

しかし、稽古で先輩や仲間に揉まれるうちに、合気道はそんなことを求めて稽古をするものではないということが、何となく分かってきた。それでも、よくは分からなかった。しかし、稽古を続けていけば、その内に分かるようになるだろうと思い、稽古を続けていた。

何かを一生懸命にやるということは、ある目標を達成するためにやるわけである。だから、明瞭な目標がなければ、その目標を達成することはできない。目標がなければ、一生懸命にやる意味がないことになる。ただ一生懸命やればいい、ということではない。

我々は合気道を修行しているわけだが、その修行の目標は、この「合気道」の言葉の中にあるはずである。「合気道」とは、すばらしい名称である。目で見ても魅力的だが、何か神秘的で摩訶不思議なものがあるような気がする。

「合気道」「合気道」と唱えるだけでは、いくら稽古をしても、ある程度以上の精進は難しいだろう。そこを突き抜けるためには、この「合気道」とは何かを解読しなければならない。

人それぞれ違うだろうが、私の解釈では、「合」とは、自分、つまり心身(心と体)と宇宙生命力(宇宙エネルギー)である「気」とを一体化する修行法(「道」)である。「気」とはいろいろ解釈されているが、つまりは「宇宙生命力」、または「宇宙エネルギー」ということになるだろう。

合気道の言葉の「合」と「気」はこれで明瞭になっただろうが、「道」がいまひとつしっくりこないだろう。「道」をもう少し深く見てみたいと思う。

合気道だから、稽古人は合気の道を進んで稽古していると思っているだろうし、思いたいだろう。しかし、本当に「道」を進んでいるのかどうかは分からないのではないだろうか。合気の「道」は目に見えないし、誰もそこが「道」であると教えてはくれないからである。

しかしながら、「合気道」であるから、合気の「道」を進まなければならないわけである。それでは、どうすればその「道」をみつけて、「道」を進むことができるのだろう。

答えは、「技」である。正しい技の練磨をしていけば、「道」を進めるはずである。合気道は技の練磨によって精進していくわけであり、従って「道」を進めることになるのである。

合気道の技は、宇宙の営みを形にしたものであり、宇宙の法則に則ったものである、と開祖は言われている。だから、技は法則に則っていなければならない。次に、開祖は『武産合気』で、「法(のり)は道」であるとも言われている。だから、「道」も法則に則っていなければならないことになる。もちろん、道の法則は宇宙の法則ということになるから、道と技は共に宇宙の法則に則っていなければならないことになる。

稽古での技の練磨を通して、技に法則性をみつけ、宇宙の法則(法(のり))を見つけ、宇宙の営みを身につけていくこと、これが「道」であると考える。

この道を進んでいくと、宇宙生命力が心身に入り込み、結びつき、そして宇宙と一体化(合)していくことになるのだろう。従って、合気道の最終目的は宇宙と一体化することであるということに繋がってくることになるだろう。