【第319回】 何が大事

物事を成就させるためには、やるべきことがある。それは、目標をしっかり定めることと、その目標をつねに意識していること。そして、その目標に到達すべく、または近づくべく、手段を駆使すること。精一杯力を出すこと。それに運である。

合気道の相対稽古は素晴らしい稽古法だが、注意することがある。相対で稽古していると、どうしても相手を意識してしまい、自分が消失してしまうことである。

相手が受けを取ってくれて、気持よく投げたり抑えている場合はいいが、相手がちょっと頑張ったり、強くて関節技が効かないとなると、なんとか効かせようとして、がむしゃらに頑張ってしまう。

がむしゃらに頑張ると、自分の体制が崩れ、相手の間合いに入ってしまうし、その一点だけにしか集中してないので、他の部分がスキだらけになり、武道的には死の体勢になってしまう。これでは、武道としてだめであろう。

いくらがむしゃらに頑張っても、出来ないものは出来ないものである。一生懸命やったから、繰り返してやったから、といって、技が効くようになるわけではない。

例えば、二教裏が効かないとすると、効かそうとがむしゃらに力をいれるのはあまり意味がない。なぜならば、効かないだけでなく、自分の稽古になっていないからである。

稽古で大事なことは、技が効く効かないということではない。技を向上させること、体をつくり、その体を上手につかっていくことである。

二教裏を決めようとして、相手の手首を虐めたり肘で決めようとしても、効かないものは効かないのだから、それよりも自分の稽古になるよう、自分の手を絞り込む稽古をしたり、手と腹を結んだり、息に合わせたりした方がよい。そうすれば今はできなくとも、来年、5年後、10年後には出来るようになるだろうし、それなりに二教も効くようになるはずである。

目標に関しては、合気道を修行しているわけであるから、合気道の目標をしっかり持って稽古をしていかなければならない。それが曖昧だと、上達はないはずだ。そのためには、「合気」とは何か、「道」とは何かを考えなければならないはずである。それがはっきりしなければ、合気道もない。

合気道の基本技はそれほど多くないし、名前のついている技(形)も多くはない。しかし、その少ない技の名前には、大事な意味がある。例えば、「小手返し」は小手を返す技であるが、小手がどこなのかわからなければ、小手返しがうまくいくはずがないだろう。小手とは手首から肘までだから、がむしゃらに相手の手首をいじめるより、手首を十字に返す稽古をした方がよい。

合気道の相対稽古では、相手を意識しすぎて、自分を忘却してしまうので、往々にして大事なことを見失ってしまうものだ。それを補うためには、一人稽古がよいだろう。一人稽古では、自分ともう一人の自分になるので、もう一人の自分が先生になって、ああしろ、こうしろ、これはいい、これは駄目だ、と教えてくれる。何が大事で、何が大事でないかも、教えてくれるはずである。

そうすれば、大事なことと大事でないことがわかるようになり、大事でないことはどんどん捨て、大事なことに集中するようになるはずである。

一人稽古でそれがわかってくれば、相対稽古でも大事なことが見えてくるはずである。