【第309回】 常に不満であれ

人はともかく満足したいと思って、生きているはずである。これは時代が変わっても、国や地域が違っても、大人も子供も、男性も女性も変わらないだろう。ただ、満足したいと思いながら、満足できないからいろいろ問題が起きることになる。

合気道の修行も、最終的には満足して終わりたいと、誰もが思っているはずである。また、日々の稽古でも、満足な稽古をしたいと思っているはずである。

ただ、何をどうするのが満足なのかは、人によって違うだろう。十分に動いていい汗をかけば満足である人もいるだろうし、稽古相手を投げたり抑えたりして満足したり、所定の時間の稽古に耐えられたことで満足したり、新しい発見があったので満足したりと、いろいろだろう。

初心者のうちは、その日の稽古や稽古相手との小さな戦いに一喜一憂したり、満足したり、不満足であったりするものだ。特に若い時は、相手を投げたり抑えることができた時は満足し、逆にやられてしまったときはくしゅんとしてしまうものだ。

年を取っていても、「やった」と思うときには、満足するものである。満足することは、前に進むためには必要なことであろう。

本当に満足することは、課題を乗り越えることであると思う。満足したということは、課題を一つクリアしたことである。つまり、進歩したことになるのである。

稽古して満足がないとしたら、課題を持たずに稽古をしたか、または、課題があってもクリアできず、結局、進歩がなかったということだろう。

稽古を長くやればやるほど、解決しなければならない課題がどんどん増えてくる。それを一つ一つクリアしていかなければならないのだが、クリアしなければならない課題は、無限にある。一つクリアし満足しても、また新しい課題があらわれる。というより、必ず新しい次の課題はあらわれるのである。そこで満足などして、留まってなどいられない。

満足しても、そこで満足していては駄目である。もし満足したときは、そこが終着点ということになる。しかし、道はもっと先へ続いている。

満足を目指すが、不満でなければならない。これも、合気道の相矛盾する公案の一つだろう。

無限に課題があるから、不満であるわけだ。しかし、不満があるから、無限の満足を味わえることにもなる。満足を味わうためには、いつまでも不満でなければならない。