【第308回】 感謝、感謝

人は意識するときもあるが、無意識で生きているほうが多いのではないだろうか。一日のうち、つまり一生のうちの三分の一は、寝ているものである。寝ているときはほとんど意識がない。心臓は意識して動かさなくとも動き続けてくれるし、呼吸もたいがいは無意識でやっている。歩く場合でも、右、左、右、左と意識して足を進めているではなく、無意識で歩いているはずだ。

心臓が止まらず働いていてくれるのも、息をしているのも、歩くのも、なんら不思議とも思わずに生きている。

その不思議さと有難さは、病気や怪我をして、はじめて気づかされるのではないだろうか。それでは、心臓さんなどの五臓六腑や五体さんに申し訳ないのではないだろうか。五体さんや五臓六腑さんたちが協力するのを嫌がったり、ときには反乱を起こすのも無理ないだろうし、癌などになるのも不思議はないだろう。

合気道の稽古では、体をけっこう酷使するので、体さんに感謝して使わせて頂かなければならないはずである。稽古で傷つけたり、また相手に傷や怪我をさせるのも、体さんに失礼である。そのような事故がないように稽古し、そして無事に稽古ができたこと、体さんが働いてくれたことに、感謝すべきであろう。そうすれば、体さんは次の稽古で、さらなる協力を惜しまないはずである。稽古のはじめと終りの礼には、体さんへのよろしくと有難うの感謝の意味もなければならない。

感謝することとは、まず意識することであろう。稽古で体さんに協力してもらうためには、体さんの各部位に意識を入れることである。無意識でつかっても働いてくれないし、技は生み出されないはずである。

合気道の技は、通常、手でかけるが、技を生み出すためには、相手と接している手先と、腰腹・足などの関係部位との対話を、意識と息を入れてやらなければならない。そうすれば、体中に意識が息とともに入っていくはずである。

どうも人間は、意識することを避けようとする傾向があるようだ。前出の心臓や肺や足のように、人の体は無意識でも機能するようにできているので、人は潜在的に少しでも無意識で生きていきたいと思うのかも知れない。スポーツ、踊り、お経や祝詞等などはなるべく意識しないで、無意識でできるようにしなければならないし、コンピュータや昔のタイプライターもいわゆるブラインドタッチで文字を打てるようになるのが理想だし、今の若者の携帯でのメール文章を打つ早さは高速ロボットのようである。

技の錬磨をしていく合気道も、最終的には無意識で、山彦の道でできるのかも知れないが、そこに行くまでは意識した稽古をしなければならないと考える。意識をすれば、感謝の念がうまれるはずである。稽古ができたこと、体が動いてくれたこと、怪我がなかったこと、できなかったことができたこと等などを感謝するだろう。

また、稽古で感謝の念ができれば、家庭でも、仕事でも、社会でも、町や野山でも、見る者、接するもの、関係するものを意識するようになるだろうし、これらのものと一緒にいること、共存していること等などに、感謝の念が湧いてくるはずである。なんでも「有難う」である。口で言うのが気恥ずかしければ、気持ちで感謝すればよいだろう。少なくとも、意識することが大事だろう。