【第301回】 合気道は武道の基

開祖である植芝盛平翁がご健在な頃には、その分野で一流の方々が合気道を学ばれていた。日本レスリング界の父といわれる八田一朗氏は非常に研究熱心な人で、柔道からレスリングに進んだが、剣道を学び、また合気道も積極的に学んだという。そして、自分だけではなく、メルボルン五輪レスリング(フリースタイル)フェザー級で金メダルを取った笹原正三にも、合気道を学ばせたという。

1938年春、満州国・新京で開かれた演武会で、力比べを挑んできた元相撲関脇天竜 三郎(本名:和久田 三郎)を開祖が制した。この一件により天竜は開祖に弟子入りし、数か月にわたって牛込若松町の道場(皇武館道場)で合気道の修行をし、終生交流が続いた。開祖が亡くなられて10年目の岩間での合気大祭で、私の傍に居られたのが天竜さんではなかったかと思われる。

講道館柔道の創始者である嘉納治五郎も、皇武館(当時の本部道場)を訪れて開祖の神業を高く評価し、後に弟子の望月稔、塩田剛三らを皇武館に派遣した。

直心影流薙刀術宗家の園部秀雄は、開祖の技を高く評価し、弟子の砂泊扶妃子(合氣道万生館道場を開設した砂泊砂泊?秀の姉)を盛平翁に弟子入りさせた。私が入門して以後も開祖が亡くなられるまで、道場でそのお姿を道場で頻繁にお見かけしたものだ。

神道無念流剣術宗家の中山博道も、盛平翁の技を評価し、弟子の羽賀準一、中倉清を開祖に弟子入りさせた。

また、開祖がご存命中に本部道場で教えられていた師範の多くは、他の武道を相当練磨されてから、合気道に来られた方々である。私が教わった頃の師範には、有川定輝(空手)、多田宏(空手)、籐平光一(柔道)、大澤喜三郎(柔道)、山口清吾(剣道)などの諸先生がおられた。

このようにざっと見ただけでも、レスリング、相撲、柔道、薙刀術、剣術等の達人が合気道の技に魅了され、自ら入門したり、弟子に学ばせたりしたのである。頂点に近いところまで到達された方々が、自分達の領域以外の異質な合気道を改めて学ぼうとするには、よほどの理由と覚悟がいったはずである。覚悟は理由によるだろうから、その理由を考えてみるべきだろう。

その理由は、まずは開祖の超人的な力、神業、そして人柄であったろうが、それ以外に、開祖が言われているように、「合気道は武道の基である」ということであろう。開祖は、稽古中に我々に技を示しながら、この合気道は武道の基であるから、武道を修練するものは合気道をやるとよいと、よく言われていたものだ。

それでは、なぜ合気道が武道の基になるのかを考えなければならない。まず、合気道は宇宙の営みを形にした技、宇宙の条理に則ってつくられた身体(からだ)を、宇宙の法則に従って使いながら練磨していくので、宇宙の法則に則り、人間相手ではなく宇宙を対象にした、通常の対人相手を超越した練磨ができる。

次に、宇宙を対象にした、というよりも、宇宙と一体化する稽古をすることによって、超自然の力を身につける可能性があること。

また、相手を制するための技、薙刀や剣などの術を学ぶことを主眼とする相撲、柔道、薙刀術、剣術等とは違い、合気道はまず身体を鍛えることが主体となる。つまり、剣や薙刀や杖をつかうための得物をつかう稽古をするのではなく、素手(徒手)での稽古、身体の稽古を主体とするのである。身体や血液のカスを取り、筋肉や関節を鍛え、天地の呼吸に合わせる身体をつくるなどである。

身体ができてくれば、主体となっている徒手での動きに、剣を持てば合気剣、杖を持てば合気杖になるのである。開祖はこれを、「合気道は武道の基であり、剣を持てば合気剣、杖を持てば合気杖にならなければならない」とよく言われていた。

もちろん、そう簡単に合気剣や合気杖が使えるようにはならない。忍耐と努力と時間が必要である。先ずは、剣や杖を持っているつもりで、徒手でしっかり技の練磨をし、武道の基をつくっていかなければならない。

武道の基とは、合気道だけではなく、剣道、杖、柔道、薙刀、レスリング等などの武道やスポーツにも不可欠なものであり、活用できるものであるということであろう。ということは、合気道は武道の基になるように稽古をしていかなければならないということである。