【第30回】 秘儀の場 − 神籬磐境(ひもろぎいわさか)

開祖は、合気道や武産合気の修行を通して、神を見たり、交流されたり、黄金体になられたりして、超人的な能力をもたれた。あるとき、開祖は合気道はやめたといわれ、武産合気、神楽舞、祈りに移っていかれた。そして、合気道の稽古の目的は技を覚えたり、相手を制することではないともいわれた。技を覚えることが目的でない武道は、これまでの武道にはないものであり、理解するのは難しいであろう。

それでは合気道の最終的な稽古の目的は何なのか。
一つは、見えない、聞こえないもの、言葉にならないものを感じるようにすることである。自分の底にある気持ちや魂の声を聞くことである。この声は現実世界にあるような嘘偽りがない真の声であり、時や所を越えた万人共通の次元からのもので、みんなが共有しているものだろう。見えないもの、聞こえないものをこの次元で見たり、聞いたりできるようになれば、恐らくすべての人や、自然、宇宙、神などと結び合うことができるのだろう。

中国武道研究家の清水豊氏は、「テレパシテックなものをも含めた超感覚的器官を養成するのが合気道の稽古であり、その意味において合気道は『公開された秘儀』であるとも言える。(『合気道の神道原理』清水豊)」といっている。つまり、合気道は、超感覚的器官を養成するための秘儀の場、神籬磐境(ひもろぎいわさか)なのである。神籬磐境は、祭祀の時に周囲に常磐木を立てて神座としたものを神籬(ひもろぎ)、岩石つくった神座を磐境(いわさか)と称していた。

合気道の修行が秘儀となるか否かは、修業者の意識による。合気道の修行をただの体操などと考えれば、秘儀とはならず、魂の世界へ入ることもできない。

開祖は、大東流やいろいろな武術を納めたが、その中から秘儀の場にふさわしい技だけを残し、新たな技、例えば、入り身投げ、呼吸投げなどを加えて、秘儀に相応しくないものは捨てていった。私が入門した頃はまだ、首を絞めたり、捻ったりする柔術的な技も多かったが、秘儀に相応しくないということで捨てていかれたのだろう。開祖の最晩年は柔術的な技はほとんどやられず、主に武産合気、神楽舞をされていた。しかし、我々に対してはしっかりした、剛の基本稽古をするようにということであった。これは、精神世界、魂の世界に入っていくためには、まず、それを納めらるしっかりした体、魄をつくらなければならないということだろう。

合気道の技は、体をつくるための秘儀でもある。技を正しく修練すれば、合気の体ができ、つぎの霊的修行の段階に進められるはずである。