【第3回】 自分を輝かせる

道場には、男性や女性、日本人や外国人、若者や高齢者など、いろいろな人が集まってくる。稽古をする時は、様々な相手に対することになるが、相手が男性でも女性でも、日本人でも外国人でも、あまり意識の差はないといっていいだろう。しかし、若者に対するのと高齢者に対するのでは、大きい違いがある。

若者には勢いがあり、エネルギーが有り余っているので、それを出し切らないと稽古をしたという満足感が味わえないようで、技の正確さや理合などは二の次になりがちである。若者と稽古をする場合は、相手に思う存分力を出させ、使わせてやり、こちらも相手に十分な力(異質の力、部分的ではない体全体の力であり呼吸力の力)で対処し、相手の若者が息が上がってダウンする寸前まで動かしてやるのである。そうすると相手はいい汗をかき、終わったとき十分な満足感を味わうことになる。

年配者となると、若者にくらべ体力や柔軟性に欠けるところが出てきて早い動きも難しくなるが、それまでに培ってきた信念や目的があるので、自分なりに切磋琢磨しようとしていう意欲は十分である。受け身を取ってはいるが、技が理に適っていない時は納得していないのである。道場にきている年配者は、それまで生きてきた人生や、そこから得た知恵・考えに沿った稽古をしたいと思っている。つまりは、相手に立ち向かうというよりは、自分との戦いなのである。

従って、年配者と稽古をするときは、理に適った稽古をしなければならない。若者相手のように、投げたり、押しつぶしたり、息が上がるような稽古では、相手に満足感がない。合気道の稽古のおもしろさは、一つには、自分だけでなく、相手も満足した稽古をしなければならないということにある。これが、合気道は"愛の武道"でなければならないということでもある。

だが、年配者を納得させ、満足させるのは容易ではない。人生を長く歩んできており、それぞれが異なった理念、人生観、美意識、道徳観、宗教観、哲学を持っているからである。これをすばやく読み取り、または感じて、それに沿って稽古をしなければならないから、全身全霊を傾ける必要がある。特に、こちらが受け身を取る場合には、相手の意図を察して動く必要があるため、通常の2倍や3倍は運動量が多くなる。従って、若者とやるよりも気を使うことが多い。力を入れすぎたり、タイミングを間違ったりすれば、相手にケガをさせる危険性もある。それは、最低の稽古をしたことに他ならない。

年配者と稽古をする場合は、先ずゆっくり動くことである。相手には十分力を出してもらい、力やスピード、勢いに頼ってやらないようにする。一時間の稽古が終わったときには、相手にも十分にやったという満足感を持ってもらうようにする。年配者を短時間で疲れさせるような稽古をする人を見かけるが、時間の最後まで稽古を続けてもらうのは、実は難しいものなのである。

稽古をする時でも見る時でも、すばらしいと思うのは、若者は若者らしく全身全霊で、勢いよく稽古をし、高齢者はそれまで歩んできた人生の味のでた稽古をしているのを見ることである。若者が老人臭い稽古をしたり、高齢者が力ずくで稽古をしているのは、自然に逆らっているようで気持ちのいいものではない。

人は派手なもの、パワフルなものに目が行き勝ちである。ともすれば、若者の勢いやエネルギーが注目を集める。特に、現代は若者文化ともいわれるほどの物質文明の世の中である。つまりはパワーの世界、若者の社会で、年寄りはどんどん社会の外に置かれるようになってきている。金が無く、力がないと住みにくい時代なのである。高齢者には住みにくいし、不安な社会になってきている。

人は、春、花をめで、秋は葉をめでる。春の葉は緑であるが、秋になると赤や黄色など微妙な色になる。この微妙な葉の色は、葉緑素が抜け出ると表に出てくるが、それはすでに春の緑の葉の中にあるということが、以前海外の雑誌のコラムに書かれていたと、ある武道家が紹介されていた。

人は、若いうちは注目されるが、若さという一般的な意味においてである。本来の輝きは年をとってからである。武道では若者は決して名人、達人にはなれない。武道界では、達人は80歳以上、名人は90歳以上ということになっている。技などの技術だけではなく、年を経なければ得られないものがあるのである。

それまで隠れていた色を出し、本来の輝きを出せるのは、高齢者になってからである。自分を覆っていた"葉緑素"が取れたとき、それが出てくる。年を取ることは、自分を輝かせることである。年をとっても"葉緑素"で自分を包み隠さず、それを拭い去り、美しい秋の葉の色が出るように自分を輝かせたいものである。