【第299回】 出来ない事をやる意味
正面打ち入り身投げも満足にできない者が、太刀取りや杖取りをやることに意味があるのかどうか、ずっと考えてきたが、自分なりの結論が出たようなので、ここにまとめてみることにする。
「太刀取り」は本来、「抜けば玉散る氷の刃」に素手で対処するわけだから、よほどの名人達人でなければできるわけがない。ましてや素手の正面打ちも満足にさばけない者に、できるわけはないだろう。木剣であってもなかなかできるものではないし、命がいくらあっても足りない。剣道をやっている人が見れば、危なっかしくて見ていられないだろうし、剣道を愚弄していると怒られるかもしれない。
しかし、このできない「太刀取り」の稽古をやるべきであるし、やる意味があると考える。それは昇段試験の課題であるからでも、素手で太刀を取るためにやるのでもない。昇段試験もそうだが、太刀を取ることは目的ではなく、その稽古をすることによって、大事なことが得られるからである。
太刀取りだけでなく、杖取り、短刀取り、二人掛け、三人掛け、多人数取り等なども、なかなかできるものではないが、やるようにしなければならない。
できない事を、無理でもやる、やらなければならない理由と意味とは、次のようなものである。
- 技や身体使いなどの理合、法則を学びやすいことである。できる技ややりやすい技の稽古は、多少、理に合わなくともできてしまうものだが、まだできないような技での稽古では、その間違いが明瞭に露呈される。また、得意な技などで会得した法則を、その難しい技で試してみれば、その法則の正否が分かりやすいはずである。
- 太刀取りなど、まだできない形の稽古で、それまで培ってきた技を駆使し、そしてその技に自分をはめ込んでみるのである。例えば、手足を腰腹と結び、左右交互に規則正しくつかい、気持と息に合わせて動くようにするのである。宇宙の法則に則って動いていくのである。技をつかうというよりも、自分を技の中にはめ込んでいくのである。そうすることによって、合気道の目標であるところの、宇宙との一体化を感得できるようになるようだ。
- はじめは、手足が居着いて自由に動けないだろうが、少しずつ動けるようになるだろうし、太刀や得物を少しづつかえるようになるはずである。できるできないとか、どれだけできるかは別として、紙一重ずつではあろうが、名人達人に少しでも近づいていけるはずである。これが合気道の精進である。
できない事でもやる意義はあるし、できそうもないことをやることによって、分かることもある。ただ、目的と考え方を間違えないように、注意が必要である。先ずは、真剣や木剣を素手で容易にかわせるなどと、思わない事である。出来ないところから、稽古を始めなければならない。
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