【第298回】 手は得物をつかうつもりで

技の練磨を通して精進していく合気道は、技を手でかけるので、手の使い方は大事であるが、どのように使えばよいのかという定説はまだないようだし、指導者によっては、全く逆のやり方をしている場合もあるようだ。例えば、ある師範は手を開くといい、他の師範は指を曲げて手を握って使う、などである。

技をかけ合って思い悩むのは、手の使い方が難しく、手をどう使うかが分からないからであろう。手をむやみに動かすのでは、相手の手が離れたり、弾いたり、相手の力とぶつかってしまう。力を出さなければ、相手に抑えられたり、悪さをされたりしてしまう。

合気道というのは、合気の道ということであり、道の上を進んでいかなければならない。道というのは、普遍性、汎用性があり、また法則性を有するはずである。合気道の技は宇宙の営みを形にしたものであり、合気道は宇宙の条理、宇宙の法則を追求し、身につけ、そして宇宙と一体化を目標にして修練するものである。

従って、技をかける手の使い方にも法則があるはずで、その法則に則って使わなければならないだろう。

先ず、これまで書いてきたように、宇宙ができて以来営んでいるところの、宇宙の営みの法則であると考えられる、陰陽、十字、円の巡り合わせ、螺旋などで使うことである。

手をこの法則に従って使わなければ、技はうまく使えないはずだし、この法則は誰にでも通用するはずである。従って、それが誰にでも通用すれば、法則といえるはずである。

手の使い方で、もうひとつ重要なことがある。それは、手は得物を持ったつもりで使うということである。例えば、片手取り四方投げの手の動きは、手に剣を持って、ます相手の胴を切り、転換して首を切るように、手を使うのである。また、片手取りの転換法や呼吸法でも、剣を持って、剣を使うつもりで手を使うと、うまくいくはずである。刃筋を立てるよう、剣が折れ曲がらないように注意しながら手を使わなければならない。

しかし、得物を使うつもりで手を使うことが正しい事なのかどうかに、疑問をもつ向きもあるだろう。そんなことに意味があるのか、それは正しいことなのか、という疑問である。

結論としては、正しいといえる。なぜならば、手を得物をつかうつもりで使うことはそれだけではなく、先に繋がっているからであるし、それをやらなければ先に繋がらないからである。先に繋がらないということは、進歩が止まることになる。進歩、上達したいのなら、先に繋げた稽古をしていかなければならない。

得物を使うつもりで手を使うことが、なぜ、そして、何の先に繋がるかというと、それは合気剣や合気杖である。
合気道では、合気道の徒手の動きに剣を持てば「合気剣」、杖を持てば「合気杖」にならなければならないとされる。そのためには、徒手でその動きに繋がる練習をしていなければならないはずである。

徒手でも、得物を使うつもりで手を使えれば、得物を使えるようになるだろう。そして、得物が使えるようになれば、得物を持たなくとも、得物をもったように手をつかうことも動くこともできるようになるはずである。まずは徒手で、得物を使う手を使う修練をすべきである。勿論、技も上手くできるはずである。