【第297回】 稽古の基本は一人

人は、本来寂しがり屋なのだろう。周りの人と一緒に生きていかないと、寂しく不安になるようだ。たとえば昔でも村八分にされるということは大変重い罰であったわけだから、村八分は非常に寂しく辛いことであったに違いない。

現代でも、人は必ずなにかの組織や団体やグループなどに属している。その組織や団体やグループが、社会や国や世界を構成し、機能している。そこで人は、それらの人々と共に活動することになる。学校、会社、地域社会などなど、人と人が繋がり合い、絡み合って生きているのである。

合気道を始める場合も、合気道という組織に入り、仲間と一緒に切磋琢磨して稽古するわけである。相対稽古の相手として、ライバルとて、目標として、一緒に稽古をしているわけである。

はじめの内は、仲良しグループで稽古していくものだが、それはそれでよいだろう。そうでもしなければ、初心者には稽古は続かないだろう。しかし、上級者は、少しずつその考え、稽古の仕方を、変えていかなければならないだろう。

真の稽古とは、自分との戦いである。自分と戦うためには、基本的にひとりにならなければならない。仲良しグループでやっていたのでは、仲間や他人との優劣を比較するような、小さな戦いはできるだろうが、自分との戦いは難しい。

稽古というのは、積み重ねである。毎日、薄紙一枚ほどの上達を期待しながら、地道に稽古をやっていくのである。一年で、この薄紙が精々厚紙に、10年でボール紙ぐらいになるのが精いっぱいであろうが、焦らずに稽古を続けていくのである。

稽古の基本はひとりであり、稽古は孤独であると思う。孤独だから、自分を見つめ、自分を精進しようと工夫することになる。自分のペースに合わせてできるから、稽古の積み重ねができる。

ひとりでやる一般的な稽古は、自主稽古であり、孤独な稽古になる。人に教えて貰ったり習ったりするものは、穴あき、デコボコができる危険性がある。自分でやる稽古は、ぎっしりと詰まり、前後が繋がっているので、穴あきデコボコの精進ではない。合気道に秀いでた先人や先輩は、必ず自主稽古で自分の戦いを通じてうまくなられたはずである。

もちろん合気道では、相対稽古は大事である。しかし、初心者はよいとしても、上級者にとって重要なのは、相対稽古でもひとりと思って稽古することである。相手をどうこうしようとか、弱いとか強いなどということを気にして稽古するのではなく、自分に打克つための自分との戦いの稽古をしなければならない。つまり相手がいるがいない稽古である。

稽古の対象は相手ではない。自分である。自分の課題である。稽古は自分の問題解決をすることといえるだろう。相対稽古の相手は倒したり抑えるための対象ではなく、自分の掛けた技の善し悪しを如実に示してくれる"結果"ということになろう。

うまくできれば相手は倒れてくれるし、そうでなければ倒れてくれないだろう。うまくいかなければ、問題があるわけだから、さらに研究、努力しなければならない。相手が悪いわけではない。実力不足なだけだ。相手はそれを教えてくれるのである。有難いことである。

だから、稽古の終わりには、「ありがとうございました」と挨拶をするのである。ちなみに、稽古のはじめの挨拶は、私はいろいろ試すので、うまくいかないで不愉快なことをするかも知れませんが、よろしくお願いします、というような意味でもあるはずだ。

稽古の基本はひとりであると自覚してやるべきだろう。