【第296回】 開祖に思いを馳せながら稽古する

合気道を創始された開祖が亡くなられて早や40数年が過ぎ、開祖の高弟や開祖に直接教わった方々も亡くなられたり引退され、開祖に直接教えを受けたり、お話を聞いた合気道の稽古人はだいぶ少なくなってきた。開祖を一代目とすると、開祖から直接ご指導を受けられた先生や先輩は二代目、その二代目の先生や先輩からご指導を受けたのが三代目、ということができるだろう。

私は開祖を存じ上げているし、お教えも多少は受けたつもりであるが、どちらかといえば、二代目の先生方(植芝吉祥丸、有川定輝師範、多田宏師範等など)に教わった三代目といえるだろう。

今では我々三代目のつぎの四代目の時代に入っている。四代目になると、開祖と直接接したこともないし、見たこともない。我々世代までのように開祖のお話を聞いたり、叱られたりしたことがないので、合気道をただ漠然とした思いで、自己流に解釈して稽古する危険性があるのではないかと危惧する。

二代目、三代目から開祖の思いをしっかりと受け継いだ四代目は、開祖の目指す合気道を継承し、深めていくことができるだろう。そうでない場合には、合気の道を探っていても、道を見失い、やがて自己流に陥り、合気の道を外れてしまうようにもなりかねない。

合気道は、誰にでも入りやすい武道であるが、あるところから難しくなる。この難しいところを克服するためには、開祖の教えに頼らなければならないはずである。自己流でやっても、自助努力でも、なかなか解決しないはずである。

例えば、合気道とはなにか、何を目標としているのか、また、合気とはなにか、などは難解であり、開祖の言葉からしか分からないだろう。

合気道は技の練磨で上達するわけだが、この「技」がまた難しい。だいたいは、技を形と混同してしまうので、形を繰り返し稽古して力をつけるのが稽古だと勘違いしてしまう。開祖の言われることを熟読玩味し、それを体で味わい、また、反省する、という試行錯誤を繰り返していかなければならない。

何事も同じであろうが、何か身につけようとしたら、正しい目標を持たなければならないし、その意義を知らなければならない。また、その目標達成のための手段を知らなければならないし、そのために遣う体の働きや機能も知らなければならない。それは自分自身で考え、試してみなければならないが、問題は、自分で得た考えややり方が正しいのかどうか、そこからどこに向かって進めばよいのかなどが、不安であったり、分からなくなることである。

しかし、有難いことに開祖が、我々が知るべきことや疑問に答えて下さっている。また、回答が見つからない場合は、この場合は開祖はどうされたのか、開祖ならどうされるかを考えればよいだろう。開祖がお怒りになるようなことはしない事である。

開祖を存じ上げなければ難しいだろうが、開祖を存じ上げている方なら、開祖が常にそばに居られて、稽古を見守って下さっていると思いながら、稽古すべきだろう。

かつて本部道場の有川定輝師範は、よく「開祖に思いを馳せながら稽古しなければならない」といわれていた。有川師範は多くの大学で学生達に合気道を教え、学生達は師範の技と人間性に魅了されていたものだが、師範は「俺を目標にしないで、俺が目標とした開祖を思いながら稽古をすればよい。」といわれていたと聞く。

合気の道を誤らないために、また、道に迷ったときも、開祖に思いを馳せて、稽古をしていくことである。