【第292回】 第三世代の練磨 − 呼吸力の練磨

習い事には、順序がある。初めに習うべきこと、次に習う事、その次に習う事などである。初めに習う事を習わないでおいて、次に進むことはできない。例えば、書道を考えてみるとよい。先ず楷書がきっちりできなければ、行書は書けないし、その次の草書も書けない。楷書も満足に書けないのに草書を書けば、別な草書、つまり自己流前衛書になり、本人も判読が難しい記号となってしまうだろう。

合気道も習い事である。習う、つまり学ぶ順序があるはずである。初めは、剛の形稽古をみっちりして形を覚え、体と心をつくらなければならない。体の体当たり、気の体当たりの稽古である。この段階で気持や力を抜いた稽古をしたのでは、稽古にならないし、先へも進めないことになる。

かつて開祖は、これを厳しく言われていた。開祖の流れるような(草書)稽古を、我々が真似してやっているところを開祖に見つかると、大目玉を食らった。開祖が戒めたのは、我々はまず書道でいえば楷書をしっかりやりなさい、それをやらずに草書をやるなどとんでもない、ということだったのだろう。

この楷書の稽古は、誰でもできる。しかし、どれだけ力一杯、気持を込めて稽古をするかは、本人次第である。

この楷書の稽古に、これでよいということはないが、ある程度できてきたら、次の稽古に入らなければならない。つまり、第二世代の稽古ということになる。何の稽古かというと、技の稽古である。前の楷書の稽古、第一世代の稽古では、形と体力と気力の稽古が主眼であって、技など意識して遣っていなかったはずであるが、第二世代は技が主眼の稽古になる。

技の稽古とは、先ず、宇宙の営みに則り、宇宙の法則である技を見つけること、そしてそれを試行錯誤しながら身につけていくことである。十字の螺旋、陰陽、円の巡り合わせなどなどを、身に着けていくのである。そのためには、第一世代で培った魄力は、どこかにしまっておいて、使わないようしなければならない。そうしないと、その魄力で相手を倒すことができてしまうので、技を追求しなくなってしまうからである。

しかし、これは容易ではない。それまでのものを使わずに封印するのだから、一旦実力は大きく後退し、つまり弱くなるからである。後で考えると、新たなことをやるには一時、後退するのは当然だとわかるものだが、実際は、よほど覚悟しなければ中々できるものではないだろう。

しかし、技が身につかなければ、先には進めないのは当然であろう。技をつかわずに、魄力と気力だけで人を投げたり抑えることには、限界があるはずである。

技は無限にあるはずなので、技の稽古、技の練磨に終わりはない。技の練磨は、合気道修行中続けなければならない。しかし、技は大事だが、技だけで相手は倒れてくれないことがわかってくる。やはり、力が必要になる。この力は、第一世代の力(魄力)とは違っていなければならない。技の中での力である。技により相手とくっつき、相手と一体化した力であるから、多少力を入れても相手が離れにくいし、相手を動かしやすい力である。

第一世代の力では、力を入れると相手から離れてしまったり、相手を頑張らせてしまい、容易に動かすことができないものだ。相手がくっついてしまって手を離さないのも、思うように動いてくれるのも、相手が嫌々ながらもついてきてくれるからである。

この第三世代で練磨する力が、呼吸力と言えるだろう。呼吸力は、出力だけでなく引力をもった力であり、相手を弾き飛ばすのではなく、くっつけてしまう力である。しかし、この呼吸力は技を通してしか出てこないし、養われないものである。

手をむやみに振り回すのではなく、例えば、手先と腰腹を常に結び、手を縦の円と横の円のめぐり合わせでつかい、ナンバで手足を左右陰陽につかい、腰を支点に手を動かすようにつかいながら、形稽古で力を目いっぱい出して力をつけていくのである。

稽古をしてくれる相手は適当な負荷となるから、こちらが力を入れれば入れるほど、力が養成されることになる。また、相手が体力や力がある方が、よい鍛錬ができることになる。

この最適な練磨法は、何と言っても呼吸法であろう。片手取り、両手取り、諸手取り、坐技のすべての呼吸法である。呼吸法とは、呼吸力養成法である。この呼吸力の練磨が、第三世代の練磨と考える。