第284回で道歌について書いたが、道歌とは言葉や文章では説明し難い極意や奥儀を、三十一文字(みそひともじ)で詠んだものである。簡潔ではあるが、一文字一文字に深い意味がり、そしてその難解の文字が組み合わされているため、非常に難解である。難解なのは文字の意味だけではなく、そのレベルでなければ理解することが難しいということである。
さらに難しいのは、文字や言葉を追うだけではだめで、感じなければならないことである。道歌が詠われたのは、そこに感動があったからであろう。感じる、つまり感動するためには、道歌をつくられた方の心に共鳴しなければならないということであろう。
そのように道歌に感動し、道歌から奥儀や極意を得るのは難しいわけだが、開祖の道歌が難しいからといって逃げていては、合気道の精神にも反するし、開祖も悲しまれるはずである。
合気道の奥儀と極意は、道歌にあるといってもよいだろう。まずは、技の練磨と同じように、正面から魂魄でぶつかることから始めなければならないと考える。解る解らない、失敗するしないは、ぶつかってやってみてからのことである。一つの解釈ができたら、誰か(筆者も含む)が後でこれに足したり引いたり消したりして、完成に近づけていけばよいだろう。
とりあえず、開祖が詠まれた道歌に挑戦していってみることにしよう。取り上げる順序やタイミングには、意味も規則性もない。
まず今回は第一回目として、
ありがたや 伊都とみづとの合気十 ををしく進め 瑞の御声に
を取り上げて、解釈を試みてみることにしよう。
解釈に当たって、まず、文字の意味を調べなくてはならない。それを解釈してみる。