【第283回】 動かなけりゃ駄目

人間は基本的に、少しでも楽をしたいという遺伝子を持っているようだ。それは、人類の歴史を見ればわかる。すべてのものは、人を楽にするために発明され、つくられているといってもよいだろう。人を楽にしてくれるものが評価され、人はその'楽'に対価を支払う。

道具や機械は、その典型であろう。車や電車、船や飛行機も、人の移動を楽にしてくれている。スイッチを入れればものができてくるし、座っていれば、目的地まで運んでくれるのである。

この'楽遺伝子'がどこまで頑張ろうとするかは知らないが、そろそろこの'楽遺伝子'に対抗するものが必要になってきているように思う。あまりに楽になり過ぎ、本来、人間が持っている身体の質や機能を破壊しているのではないかと危惧する。足腰が弱ると、そのために内臓も弱る。また、頭では考えるが、体を動かさないので、体感できないままで考えの善し悪しの判断が難しくなり、相手を説得するのも難しいことになる。

人類の歴史など四、五百万年だが、人間の体は足で歩いて移動し、動くようにつくられていると思う。おそらく自動車に乗り、飛行機で飛んでいくことを前提に、つくられたものではないだろう。

しかし、今の地球上の社会で生きていくためには、楽を否定した生き方はできないだろう。だが、自分の身体を破壊したり、不調にすることも、できないはずである。

現代社会で楽だけに甘んぜず、アンチ楽に挑戦しようとするのが、合気道の稽古であるということができるだろう。真夏の暑い最中に、汗を流し、息をはずませながら、投げたり投げられたりの稽古をするのは、ご苦労な事といわなければならないが、これがよいのである。

人は、年を取ってくるとだんだん動かなくなってくる。稽古をしても、若い時のようには動けなくなる。これは自然である。しかし、動かなくなることが自然だといって動かないのは、アンチ楽の合気道の精神に反する。動かなければ合気道ではない。

動くということは、稽古では主に、技をかけ、受けをとることである。とりわけ、受けが取れなくなったら、動けないということである。

動くということは、夢遊病者のように目的もなく動くことではない。ここでいう動くということは、目的を持ち、頭をつかって体を動かすことである。技をかけるにしても、受けを取るにしても、体を練るにしても、頭をつかって動くことである。頭をつかうことの中心は、その動きが目的にあっているかどうかを判断し、修正することだろう。

物事は動いてはじめてでき上る。合気道的に言えば、動いてこそ、物が生成化育されるのである。

見ているだけでは駄目、聞いているだけでも駄目、本も読んでいるだけでは駄目、ごたごた言っているだけもまた駄目である。見たこと、聞いたこと、本で読んだこと、考えた事等を、そのままにして置くのではなく、それで何かをつくり上げるのである。例えば、それをまとめて書き残したり、それらを利用して新しい理論をつくったり、後進に伝えたりするのである。

人は宇宙を生成化育するためにつくられたと、開祖は言われている。生成化育のために、人は動かなければならない。生きている限り動き、宇宙生成化育のお手伝いをしたいものである。