【第282回】 相手と争わない

前回に引き続き、合気道の公案である。今回の公案は、「争って、争わない」である。

本来、武術や武道は、敵の相手を制したり、敵を殲滅するための技を会得するものであるが、合気道では「争ってはいけない」というのである。

合気道の稽古が、相手を殲滅するのでもなければ、勝敗を決めるものでもないことは理解できるだろう。だが、技を掛け合う相手と、争わないで稽古をするのは難しいものである。なぜならば、通常は素直に受けをとる相手が、何らかの事情で受けを取ることを拒否したり、または、無意識のうちに理合いに反する技遣いをしてぶつかり、動きが止まって争いになったりするからである。

「争って、争わない」とは、まず、武道であるから、相手を殲滅すべく心構えで技遣いしなければならない。この精神と技遣い、それに体遣いが、「争う」ということであろう。技の掛けはじめから収めまで、隙がないよう、そしていつでも相手を殲滅しようと思えばできるという武道的厳しさをもって、やることである。

そして、「争わない」であるが、この「争って、争わない」は、前回の「相手はいるが、相手はいない」と同じことであろう。つまり、争わないためには、争いの元凶である相手をなくしてしまえばよい。前回、書いたように、自分と相手を結んでしまい、相手を自分の分身にしてしまえばよいのである。気結びし、生むすびし、相手と一体化するのである。

一体化してもまだ争うとしたら、それは自分自身の中で争っていることになってしまう。手足を陰陽に使わないとか、十字に使わないとか、息のつかい方が理に適っていないなどによって、相手ではなく、自分自身の問題となる。つまり、争いとは、相手との争いより、自分との争いの方が問題が大きいということになるだろう。

相手と争わないためには、この他にも、相手に争う気持ちを起こさせないようにし、相手の隙や相手の不満の場所を相手より早く見出し、相手の動きに対応して、その動きを手伝うようにすればよい。開祖はこのことを、「相手を引こうとしたときには、まず、相手をして引く心を起こさしめ、引かすべくしむける。技の鍛錬ができてくると、相手よりも先に相手の不足を満足さすべく、こちらから相手の隙、すなわち不満の場所を見出すのが武道である。」(「合気神髄」)と言われている。

相手と結び、合気の理合いに合った技を使えば、そう難しいことではなさそうである。

さらに、開祖は、争う気持を相手が自ら喜んで無くするようになれば、真の合気道になると、次のように言われている。「真の武道は、相手を殲滅するだけではなく、その相対するところの精神を、相手自ら喜んで無くなさしめるようにしなければならならぬ。和合のためにするのが、真の武道、すなわち合気道である。」(同上)

こんなところが、「相手と争わない」「争って、争わない」ということではないかと思う。

参考文献    「合気神髄」 植芝吉祥丸著