【第279回】 直観力と想像力

合気道は、武道である。武道は、本来は命のやり取りを前提にしたものであるから、そのため、人間が備えているすべてのものを駆使し、それをより機能すべく磨き、鍛錬しなければならない。たとえ平和の時代にあっても、合気道は武道であるということを意識して稽古をしなければ、武道の意味はなくなるし、何を何のためにやっているのか分からなくなってしまうだろう。

合気道は武道であり、命のやり取りを前提とした厳しい稽古をしなければならない。しかし、それは相対稽古の相手を厳しく傷めつけたり、決めたりしなければならないということではない。今日のような平和な時代にあっては、それはできないし、時代にそぐわない。

それではどう厳しくすべきかというと、相手に対してではなく、自分自身に対して最大限に厳しくするのである。これが現代の武道であり、武道としての合気道のすばらしいところであろう。

合気道は宇宙の営みに則った技を練磨して、精進していく武道であるが、精進するのは容易ではないし、最終目標に到達し、自分が完全に満足するのも難しい。

合気道を創られた植芝盛平翁は、最後まで稽古を続けておられたわけだが、最後の最後まで「まだまだ修行じゃ」といわれていることからも分かるだろう。ましてや、我々凡人はいわずもがなである。

合気道の入門したての段階や、初心者のうちでの稽古での上達は、容易である。誰でも、ある程度の段階までは到達できるものだ。しかし、次の段階からが容易ではない。どれほど容易でないかというと、その容易でないことに気がつかないほど、容易でないのである。問題に気がつかないことが、最大の問題なのである。

ここに問題があるとか、この問題が分からないというのは、問題に気づいていて救いがあるが、問題に気がつかないのは最悪である。

その他にも、合気道の稽古で容易でないことは、技の説明がないことである。指導者は基本的に技の形を示すのみで、技や技の遣い方は自分で見つけていかなければならないことになる。しかし、これがまた難しい。なにせ技の対象が宇宙なのである。

宇宙の営み、宇宙の法則は誰も教えてくれない。宇宙は見えているようで見えてないし、宇宙がこんな営みをしていると示すこともできない。しかし、それが分からなければ技も分からないし、遣えないのである。

見えないこと、分からないこと、誰も教えてくれないことを身につけるのは、直観力と想像力だろう。合気道の修練では、直観力と想像力が必要になる。ありがたいことに開祖は、宇宙の事、技のことなどを、抽象的ではあるが書籍やフィルムに残して下さっている。

この開祖の言葉と技の修練から、自分の直観力と想像力を駆使して、宇宙の法則を見つけ、技で試し、改善し、そして身につけていかなければならないだろう。例えば、合気道は○に十の十字道と言われるが、十字がなぜ○になるのかは、直観力と想像力で身につける他にないはずである。

自分の直観力と想像力を信じて、直観力と想像力を磨き、それを駆使していくことも、合気の精進の道ということであろう。