【第278回】 正勝、吾勝、勝速日

入門したてで若かったころの最大の武器は、元気とスピードであった。技が上手で力もある先輩達と稽古する場合、こちらにあるものは元気とスピードしかない。体当たりでぶつかり、受けは素直にすばやく取り、すばやく戻って相手の前に立つ。いくら投げられてもすばやく戻ってくると、先輩の方が息が上がってきて、真剣に対応してくれるようになるので、これで何とか一緒に稽古ができているなと思えたものである。

そんな稽古をしていると、よく開祖がお見えになり、合気道には速いとか遅いとかいう時間の長さは存在しないといわれたものだ。そこには、時間を超越した速さがあり、それを正勝、吾勝、勝速日であるといわれた。

当時は、開祖のお話は難しすぎて理解できなかったし、理解しようと努力もしなかった。この時間を超越した正勝、吾勝、勝速日もそうである。しかし、不思議なことに、開祖の話されたことの多くが耳に残っており、近年になってその言葉の重要性に気がつき、何とか理解しようと改心したところである。

開祖の演武を思い返してみても、確かに開祖の動きは時間を超越するものがあった。すばやく振り下ろされる木刀の下にあるはずの体が、一瞬の間に相手の死角にあったり、四方から突き出された槍(杖)ぶすまから一瞬に消えてしまって、突き手の後ろに立ったりと、物理的な法則に反する速さであった。

開祖は、時間を超越した速さがあること、また、それを合気道の技で遣えることを示されたわけだから、我々修行者はこの正勝、吾勝、勝速日を研究し、身に着けていかなければならないだろう。

植芝盛平伝によれば、正勝、吾勝、勝速日の言葉の意味は、「勝とうと気を張っては何も視えんのじゃ。愛を持ってすべてをつつみ、気をもってすべてを流れにまかせるとき、はじめて自他一体の気、心、体の動きの世界の動きが展開し、より悟りを得た者がおのずから勝ちをおさめている。勝たずして勝ち − 正(まさ)しく勝ち、吾に勝ち、しかもそれは一瞬の機のうちに速やかに勝つ」という。

相対稽古で技を練磨し合っていると、技が効くのは速さに関係ないことが分かってくる。速い技遣いもよいが、どんなにゆっくりした動きでも、効くものは効くのである。もうひとつ注目すべきことは、遅く動ければ遅いほど、それに反比例して速く動けることである。だから、速く動きたければ、少しでも速く動けるように修練するのもよいが、できる限りゆっくり遅く動く稽古をするのもよい。

初心者の動きはだいたいが単調で、相手が大きかろうが、先輩であろうが後輩であろうが、同じ速さでしか動けないものである。動きの速さを意識して速く、そして遅くと、自由自在に変えて稽古をすべきであろうが、これは口でいうほど容易ではない。特に、通常より遅く動くのは難しい。速ければなんとか速さでごまかせるが、遅いと、もしまちがった技遣いをすれば、相手の手が離れたり、相手に力が及ばず、技が効かないことになるからである。

速く動く、遅く動くの調節は、気持だけではうまくいかない。大事なのは、息遣いである。息の調節によって、心と体を結ぶとともに、スピードの調節ができるのである。

正勝、吾勝、勝速日で時間を超越した技を遣う条件としては、何をおいても相手と結ばなければならない。相手と結べば二人の人間が一人になるわけだから、一人の人間として自由自在に動けることになる。そこには、時間的な速い遅いはなくなることになるはずだ。

相手と結ぶには、初めは気持で結ぶ「気むすび」、そして体で接して結ぶ「生(いく)むすび」が必要である。

技の掛けはじめは、この「気むすび」から始めなければならないし、技の最後まで「気むすび」していなければならない。が、技によってはこの「気むすび」を瞬時に切ることが必要なものもある。

例えば、太刀取りや杖取りなどでの捌きである。相手と気で結び続けていると、切られたり突かれたりしてしまうので、結んでいる気を一瞬で完全に切ってしまわなければならない。開祖が剣や杖を自由自在に捌けたのは、結んでいた気を切ってしまったはずである。それを開祖は、「空の気は引力を与える縄。自由はこの重い空の気を解脱せねばならない。これを解脱して真空の気に結べば技がでる。」といわれている。

はじめの「気むすび」は、相手を引力で捉えている空の気ということになるが、この空の気を解脱すれば自由になり、時間を超越した正勝、吾勝、勝速日の技を遣えるようになるということであろう。

しかし、自由に動くといってもめちゃめちゃに動くのでは、正勝、吾勝、勝速日にならないだろう。そこには、法則があるはずである。それは、宇宙の営みに合致して動くことである。開祖は、「正勝、吾勝、勝速日とは、宇宙の永遠の生命と同化することである。」ともいわれている。