【第275回】 受け手側に責任

年を取ってくると、同じものを見ても、見る人それぞれ見えるものが違うようであるということが分かってくる。もちろん、厳密に言えば、一つのものを複数の人が見ても、全く同じには見えないはずである。少なくとも、複数の人が同一の位置を取ることは決してないので、多少の視覚のずれが出るからである。

しかし、その視覚のずれどころでは説明できない違いがある。こちらが見えているのに、他の人には見えなかったり、違って見えているようなのである。

学校では一人の先生の授業を多数の生徒が聞く訳だが、試験でも分かるように、見えるモノは一人一人違うのである。それを能力ともいうのだろうが、そうだとすると、能力のある人はよく見えるのかも知れない。よく見える生徒を優秀な生徒といい、そうでない生徒はできが悪い生徒ということになる。

合気道の開祖、植芝盛平翁は多くの門人を育て、合気道を世に出したが、できのよい門人もあっただろうし、そうでない門人もいただろう。できのよい門人は開祖の道話もよく理解できただろうが、我々のように理解できず、苦痛さえ感じていた者もいたはずである。

教える側は、複数の人に同じことを教えているのに、それを聞いたり、見たりする受け手の捉え方はまちまちである。

開祖のお話がいかにすばらしくても、聞き手が理解できなければ"馬の耳に念仏"であるし、"猫に小判""豚に真珠"である。話がどんなに高尚でも、受け手の能力と人格のレベルでしか、理解できないし、会得できない。

どんなにすばらしいものでも、そのすばらしさが分からなければただのゴミになってしまう。すばらしいのに、邪魔もの扱いされたりしないまでも、無視されているものは沢山あるだろう。例えば、日、月、星、光、風、波、山、川、草、木、鳥、昆虫などなどである。

これらは以前からずっとあるし、これからも存在しつづけるだろう。これらは我々に多くの知恵やエネルギーを与えている大切なものなのに、それに気づく人はまだまだ少ないようだ。世の中にはすばらしいものはいくらでもあるのだから、それに気づくかどうかということである。

合気道もそうだが、世の中にはすばらしいものが充満していて、われわれを待っている。あとは我々がそれに気づき、会得できるかどうかである。

そこに存在するすばらしいものを受け入れられるかどうかは、受け手側による。そのすばらしいものは、そこに存在しているだけで、何の作為もない。いいも悪いも関係ない。活用してもらおうが、無視されようが、関係ない。それをどう遣うのか、すばらしいものとして活用するか、できるかは、受け手側次第である。

合気道も宇宙との一体化をはかり、宇宙生成化育のお手伝いをする使命をもつすばらしいものである。合気道は我々に、そのすばらしさに気付いてくれるのを待っているはずである。合気道の真のすばらしさを知るには、稽古をしてレベルアップするしかないだろう。