【第272回】 技の円熟

若い時と年を取ってきての稽古は、変わってくるはずだ。若いのに年寄りじみた稽古をするのも、また年を取っているのに若者に負けまいと若者のような稽古をするのも、不自然でおかしい。若者は若者らしく、年寄りは年寄りらしく、稽古をしていくべきだろう。

若者らしい稽古とは、自分の体力と気力を出し切る稽古であろう。まだそれほどの技があるはずがないから、先輩や上級者とまともな稽古をしようとすれば、稽古の主体は力とスピードの体力と、恐れを知らない突貫小僧的な負けじ魂であろう。どんな相手でも力一杯ぶつかって、投げられ、きめられ、抑えられながら、体と気持をつくっていくのである。相手に技を掛けても、技になっていないはずだから、相手に技を掛けてもらって、受けを取りながら技を身に染み込ませていくことになる。つまり、若者は少しでも多く技を盗むことが大事である。

年を取ってくると、若い時のように飛んだり跳ねたりするエネルギーはなくなってくる。その代わりに、技がどんどん身についてくるはずであるし、そうならなければならない。

力がなくなってきているのに、技が身についていなければ、若者の力に屈してしまう事になるだろう。力に対抗できるものは、技である。

合気道は技の練磨を通して精進するものであるから、技を身につけていかなければならない。合気道の上手下手は、技をどれだけ身につけているかということになるはずである。もちろん、若者も技を身につけなければならない。が、それは容易ではない。

なぜならば、技ということが本当には分からないからである。つまり、合気道の技の形、例えば「正面打ち入り身投げ」を技だと考えているからである。天才や超人は別として、若い内はどうしても自分の馬力に頼ってしまい、体をつくることに走り、真の技の練磨にまで気が回らないものだ。だから、若い内の技は、見当違いで、荒いし、事故などが起き易い、危ういものである。

若い内は、技などあまり気にしないで稽古していくものだが、自分の力に限界を感じてくると、だんだん技を真剣に考えるようになってくるはずだ。自分の体力や力の限界が分かるようになり、稽古は相手との勝負ではなく、技を身につける事が大事であることがわかってくる。そして、技の研究と練磨に入っていく。

そこには、敵はいないし勝負もない。これまでの他人との戦いではなく、自分との戦いになる。相対稽古をしていても、若い頃と違い、相手は敵ではなく、自分の分身として技を掛けられてのだから、相手は痛められる心配もなく、安心して稽古ができるはずである。

宇宙の法則に則った技を身につけていくことによって、宇宙とまではいかないにしても法則性があるので、誰とやっても同じ結果になるという安定性と安心感があることになる。

人は年を取れば、円熟した技を遣いたいだろう。年を取るに従って、角がどんどん取れていって、円熟した技を遣うということである。円熟するとは、無駄をなくし、自然に反しない、自分の使命に従い、宇宙の意志に則っていこうとするやり方や生き方であろう。

だが、年を取れば、技が自然に円熟するということはないだろう。若い時に十分に他ともみ合い、自分を出し切り、自分の限界を悟って、勝負や争いの限界や無常を体験しないと、円熟の境地には入れないかも知れない。それがなければ、自己満足だけの円熟で終わってしまうだけだろう。