【第271回】 少年の心を持ち続ける

60,70歳での稽古は、20,30歳の頃のものとは大分違ってきているはずだ。本人は若い時と同じで、あまり変わっていないと思おうとしても、それはやはり無理だろう。冷静に思い返してみればわかることだ。もし、それでも変わっていないとしたら、よほどの超人か、それとも若い頃から年寄り稽古をしていたかのどちらかだろう。

人にもよるが、一般的に若い時には恐れるものなどなかったろう。飢え、権力、地位や名誉、社会、世界等など何するものぞ、と思っていたはずだ。

道場で稽古しても、先輩であろうが体力のある相手であろうが、怖いもの知らずで先ずはぶち当たっていった。強い人、うまい人にはきめられてしまい、手も足も出ないということになって、そこでその人の力量が分かり、その後は教えを請うようになったものだ。いってみれば、めくら蛇に怖じずということだろう。

20代から稽古を始めたが、別に専門家になろうと思った訳でもなかったし、合気道にお金や名誉などの何かを期待していたわけでもなかった。ただ、合気道の深そうな思想・哲学には好奇心を持ち、それを追求したいと思ったのと、何かに没入させたかった自分の肉体と精神を、合気道に没入したのである。損得を考えずに、好奇心を持って自分の好きな事に集中できるのは、若さということになるかもしれない。

合気道は宇宙との一体化を目指す道とも言われるわけだから、容易なことではない。修行は一生続けなければならないはずである。70、80、90歳でも続くように稽古をしていかなければ、正しい道を辿っているとは言えないことになるだろう。

しかし、年を取れば取るほど体が弱り、スタミナは減退し、そして気力も衰えてくるだろうから、稽古を続けるのは、年に準じて難しくなるはずだ。

年を取ってからの稽古を続ける上でのマイナス要因を排除することは、不可能であろうから、そのマイナス要因をカバーして余りあるプラス要因を持って稽古することが必要になろう。そのプラス要因のひとつは、若い時に持っていた「少年の心」を持ち続けることであろう。

「少年のこころ」とは、自分の無垢で一途で稽古に励んでいた頃の心であり、また、ひからびた心を持たない、好奇心を持ち続ける、柔軟な感受性を持ち続ける、ということでもあろう。