【第27回】 合気道は愛の武道

合気道は愛の武道でなければならないといわれている。開祖も、「合気道とは、各人が与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり愛の道なのです」(武産合気)といわれた。また、「「合気」という名は、昔からあるが、「『合』は『愛』に通じるので、私は自分の会得した独特の道を『合気道』とよぶことにした。」(合気道)ともいわれたのである。しかし、これは禅問答のようで、このままでは理解するのが難しいだろう。一般的には、殺伐な武道であってはならないとか、稽古をやさしくやる武道だという程度に解釈されているのはないだろうか。

西洋では、愛には二種類あると考えられている。「エロス」と「アガペー」で、エロスは人間的な愛、所有愛、性愛や情愛など、アガペーとは神の愛で、相手のために最善のことを望み、実行する愛である。後者のアガペーは、日本ではあまり知られていないが、開祖の言われる愛はこれに近い愛であろうと思われる。

合気道での愛の稽古とは、まず相手の立場になってやることである。例えば、相手と自分が一時間の稽古を一緒にできるためには、無限の条件が満たされた結果である。少なくとも二人の時間と場の軸が道場で偶然一致したのであり、また、その稽古相手も、忙しい時間をやっと割いて、この稽古を楽しみにしてきたのだろうし、家では家族が無事に元気で帰るのを待っているのだろう等など、相手のことを思えば、相手をいじめたり、壊すことはできなくなり、愛の稽古をしなければならなくなるだろう。
稽古の後でも、他の稽古人たちも居残って自主稽古で稽古しているのに気付いた時には、相手に少しでもスペースを譲るように道場の隅のほうへと移動するようなことも、相手の立場を考えた愛から出る行為であろう。愛とは相手の立場に立って考え、行動することとも言えるだろう。
また、道場の稽古で、足を進めるときバタバタ、ドタドタさせずに、音がしないように畳にやさしく歩くのも畳にたいする愛であろう。畳だけでなく、道路を歩く時でも道路に対してやさしく歩けば、地球に対する愛が目覚めることになろう。自分の体に対しても愛をもってやさしく、大事に働いてもらうようにしなければならないだろう。体を痛めたり、病むのは体に対する愛を欠いたことから起こることが多いのではないだろうか。

愛を欠いたものには真の力、美しさ、説得力などがないだけでなく、反対に問題を引き起こしてしまうことになる。例えば、科学に、愛や人間や自然に対する思いやりがなければ、有害で危険なものになる。例えば、原爆や化学兵器である。(「ビジネスのための武道の知恵」)(拙著)

合気道も同じであろう。愛が欠ければ相手だけでなく、社会に、そして自然に対し害になるだけである。愛の武道を精進したいものである。