【第269回】 法則性のある技遣いの稽古

合気道の稽古は、あるところまでは容易である。これほど誰でも容易にできる武道はないであろう。技の形を繰り返して稽古すれば、2〜3年でほとんどの基本技の形を覚えることができるだろうし、初段の黒帯になるのも難しくない。

この後、数年は技の形を繰り返し稽古することによって、技の形を体にしみ込ませながら、体をつくっていくことになる。これも稽古をやればいいだけの事なので、容易である。稽古を続けていけば、技の形は身につき、体もできて3段とか4段になるはずである。

しかし、合気道の稽古はここからが難しくなる。これまでの稽古を繰り返すだけでは、上達が難しくなるからである。上達したいと思えば、稽古の質を変えなければならない。

まずは、合気道の稽古とは技の鍛錬であるということを、再認識しなければならない。そのためには、「技」とは何かを考えていかなければならない。それまでやっていたことは「技」の一部で、技には他にもう一つの部分があることを認識しなければならない。有川定輝師範は、常々、我々の技の稽古は「技の形をなぞっているだけ」と言われていたものだ。

「技」とは、宇宙の営みであり、宇宙の法則に則っているものであると言われるのだから、宇宙の法則までとは行かなくとも、なにか法則性があるはずである。従って、技をつかう場合は、ある法則に則っていなければならないことになる。強いの早いのということだけではない。

法則に則っていることを、「理」に合っているというのだろう。理に合った「理合い」の技をつかっていれば、誰もが納得するはずである。もちろん完全に理に合わせることはできないだろうが、「理合い」の程度によって、相手は納得することになるだろう。

「技の形をなぞっている」稽古から、この「理合い」の稽古に変えるのが、非常に難しい。これまで数十年もやってきたやり方を変えるのは容易ではない。変えることが本当に上達に繋がるのかどうか、不安であろうし、当初は確実にいったん弱くなるはずだ。初心者や婦女子に抑えられても、痛みを感じるかもしれない。勇気がいるし、何よりも自分を信じなければならない。

しかし、つかう技に法則性がないような稽古は長続きしない。上達は止まるはずだし、体を壊すことにもなるだろう。技に法則を見つけ、法則性のある技遣いの稽古をしていきたいものである。